豊後の戦国大名として、北九州一帯をその勢力圏とした大友氏は、源頼朝の庶子を祖とする所伝が伝承されてきた。しかし、最近では大友氏の初代能直は古庄(近藤)能成の子で、中原親能の養子になったのだという説が有力になっている。
戦国期は義長・義鑑・義鎮の三代で、戦国大名としての成長を遂げ、薩摩の島津氏、肥前の竜造寺氏と九州を三分する勢いをしめした。なかでも大友氏の全盛を築いたのは義鎮で、豊後.豊前・筑後・筑前・肥後・肥前の六ケ国と伊予・日向の半国に大名領国制を展開した。
大友義鎮(宗麟)の登場
義鎮は、亨禄三年(1530)、大友義鑑の嫡子として豊後府内城に誕生。元服して義鎮を名乗り、のちに宗麟と号した。天文十九年(1550)ニ月、家督相続をめぐるお家騒動「大友二階崩れ」の変で、父義鑑が義鎮擁立派の家臣によって殺害された。義鎮は、事変の首謀者である田口、津久見を討ち、二十一歳で家督を継いだ。一説には、この変に義鎮も一枚噛んでいたともいわれている。
翌年、北九州の地をめぐって長年争っていた大内義隆が、陶晴賢の謀叛で自害した。義鎮は陶氏の要請で、弟晴英を大内氏の相続者として送り出し、義鎮は大内氏の支配下にあった豊前、筑前の制圧に成功した。この年、イエズス会のザビエルを府内城に招き、布教を許可した。その目的は信仰ではなく、大砲、火薬の他、象や孔雀といった当時珍しい動物なども輸入する南蛮貿易にあった。
天文二十四年(1555)、陶氏を厳島で破って勢いを得た毛利氏が、旧大内領回復を目指して豊前に進出、門司城を攻め、北九州は大友・毛利両軍争奪の地となった。永禄ニ年(1559)、将軍足利義輝から、豊前・筑前守護に正式に任命され、同五年(1562)、宗麟と号した。
その後も、毛利氏との抗争は続いたが、同1十三年(1570)、博多での決戦により、毛利氏を九州から追い落とした。
そして、豊後・豊前・筑後・筑前・肥後・肥前・日向・伊予半国を領する、大大名に成長し大友氏最盛期を現出した。
衰退を招く
元亀三年(1572)、島津義久に敗れた日向の伊東義祐が身を寄せ、宗麟は、これを大義名分として、天正六年(1578)、四万五千の大軍を率いて日向に進攻した。また、この年に宗麟はキリシタンに帰依し洗礼名フランシスコをいただいた。
兵を日向に進めた大友軍は、島津氏と決戦に及んだが、高城の戦いに敗れ、さらに耳川の合戦で壊滅的な大敗を喫した。敗因は、キリシタンの洗礼を受けた宗麟が日向にキリシタンの理想国を建設する計画に没頭し、戦場のはるか後方で礼拝に耽っていたために、大友軍の将兵が奮わなかったと言われる。
日向の敗戦を契機に、大友氏は衰運の一途を辿ることになる。そして、配下の将士から大友氏を見限る離反者が続出。さらに、配下であった肥前の竜造寺氏は独立し勢力を拡大、新興の戦国大名として大友氏と対立するようになった。島津氏はこのような大友氏の衰退に乗じて、天正十四年(1586)、九州統一を目指して北上を開始。宗麟の居城臼杵丹生島城に押し寄せた。宗麟は、大砲「国くづし」によって、辛うじて島津軍を追い払ったものの、かつてのような威勢を取り戻すことはかなわず、次第に島津氏の攻勢に押され気味となった。このような状況下、大友氏だけでは島津氏に対抗できないと判断した宗麟は、上洛して、豊臣秀吉に援軍を求めた。そして、これが秀吉の九州征伐の引金となったのである。
秀吉の九州遠征により島津軍は薩摩に兵を返し、九州は豊臣政権に組み込まれた。宗麟の嫡子、義統は豊後一国を保証され、宗麟自身も、隠居領として日向を与えらたが、これを辞退。翌天正十五年(1587)死去した。享年58歳。
大友宗麟は、その一代のうちに九州最大の勢力を築き、キリシタンとして貿易も行うなど、大友氏最盛期を現出した。
しかし、感情の起伏の激しい性であったようで、政治に飽きて遊興に耽るなどして、家臣から諌められることも
多かった。また、キリシタンの理想郷を建設するとして、神社・仏閣を破壊し、家臣から反感をかっている。そして、
晩年は九州統一をめざす島津氏との戦いに守勢となり、結局、北九州に築き上げた領地を失った。
その人物評価
このような宗隣に対して、宗隣生存時代の宣教師フロイスは、日本の王侯中、最も思慮に富み、聡明叡智の人という。『豊筑乱記』などの江戸時代に編纂された史書は、強情・好色・浪費家と評する。また、人望のない者の重用、日向敗戦処理の拙劣無能無策、入信の軽率さなど一大英雄とするのは妄想とする論、さらに矛盾を内部に包む人物、完全主義者、並みの人間ではなスケールの大きさと評する論、など正反対の評価がある。
一方、大友氏そのものの支配形態の古さから、宗隣個人の力では限界があったとするものもあり、宗隣の政治家としての優れた資質と底知れぬ包容力を認めながらも、秀吉の至上権力に依存したところに限界があったとするものある。まさに、宗隣ほど毀誉褒貶の著しい武将はいないのではないだろうか。
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