■鎮西、戦国通史 |
九州は、織豊政権を生み出した畿内とその近国と違い、名主は小地頭として百姓たちを支配し、東国から派遣された惣地頭とともに、早くから領主化し在地領主として発展していた。しかも、九州が荘園領主の直接支配から比較的自由であったことから、島津・大友・少弐氏のような鎌倉以来の守護に根強い存在を許すとともに、少弐氏を除いて、守護大名から戦国大名への発展を可能としたのである。 このように九州は、名主の武士化・家臣団化を強く推し進め、いわゆる下剋上によって戦国大名となった畿内とその近国と異なり、鎌倉以来の古い伝統をもつ守護がそのまま戦国大名となったのである。 九州の戦乱 南北朝期、菊池武光は征西将軍懐良親王を肥後の本城に迎えて筑後に進出し、足利・一色・少弐ら武家方の内紛に乗じて九州全土に武威を奮った。 なかでも正平十四年の大保原合戦(筑後川の戦)は、宮方と武家方とが九州を二分する決戦だったが、武家方は武光の夜襲で敗れ、正平十六年には大宰府をおさえ、同二十年には征西府を置いた。かくして、武光は九州における南朝の最盛期を現出したのであった。 室町時代になると鎮西探題の支援を得た大内義興の勢力が北九州にまで伸びてくるようになり、九州の少弐・大友氏らと筑前・豊前に戦いが繰り返された。とくに筑前を基盤とする少弐と大内氏との争いは繰り返され、少弐氏は次第に圧迫されるようになった。そして、少弐政資が大内義興の軍に破れると、政資は殺され、資元が大友氏を頼って失地回復を図ったが失敗。永禄二年(1559)正月、少弐頼忠の孫冬尚が龍造寺隆信に攻められて討死を遂げ少弐氏は滅亡した。 大内氏の全盛時代を現出したのは義興の子義隆で、大永四年(1524)以来、父に従って安芸に出陣し、尼子氏とたびたび戦った。天文元年(1532)から少弐・大友氏と豊前・筑前・肥前の各地に戦い、同四年三月に豊後の大友義鑑と和して、ほぼ九州の北部を制圧した。しかし、天文二十年八月に重臣陶隆房は大内氏の重臣杉重知・内藤興盛らを味方にひきいれて、山口の築山館に義隆を襲った。 義隆は山口を逃れて長門国美祢郡の岩永へ落ち延び、さらに大津郡の瀬戸崎から海路を逃れんとしたが、おりからの激しい風波に阻まれてそれも果たせず、長門深川の大寧寺に引き返して自刃し、大内氏没落した。義隆の死後は、陶晴賢によって、義隆の甥にあたる大友晴英が豊後から入って大内氏を継ぎ、名を義長と改めたが、実権は陶晴賢が握った。 弘治元年(1555)十月、晴賢が安芸の厳島で毛利元就と戦い敗れて討たれたあと、防長両国は混乱して収拾がつかず、義長は周防郡に侵出してきた毛利氏に追われて長門の且山城に走り、同三年三月に長府の長福寺で自殺した。ここに大内氏は完全に滅び、防長両国は毛利氏の領有するところとなった。 やがて、関門海峡をはさんで毛利氏と大友氏は対峙するようになる。 永禄十年(1567)毛利氏に通じ筑前で反乱を起こした秋月種実、高橋鑑種等の鎮圧の為筑前に派遣され、七月に高橋鑑種の属城筑前岩屋城を攻め落とした。ついで九月、種実の夜襲を受けた「休松の戦い」で大友勢は苦戦するが、鑑連はあらかじめ夜襲に備えていたので、敗走する吉弘、臼杵の友軍を援けながら秋月軍の猛追をかわし筑後へ撤退した。 翌十一年(1568)「西の大友」と称された立花鑑載が大友宗家に反旗を翻した。鑑連は、吉弘・臼杵の軍とともに筑前糟屋郡に攻め入り、同年七月に立花城を攻略し、鑑載を討った。しかし、翌年(1569)大友氏による肥前の龍造寺隆信討伐の隙に立花城が毛利勢に包囲され、立花城の城兵は毛利に降伏した。 この後、立花城をめぐって大友軍と毛利軍は睨み合い、五月、多々良浜に於いて両軍が激突。大友方は毛利軍の勢いにおされ、敗軍の様相をみせはじめた。この時、鑑連は長尾に布陣する小早川勢が手薄なことを見てとり、自ら太刀を揮って敵陣を強襲して毛利軍を敗退させ戦況を挽回、大友軍を勝利に導いた。 元亀元年(1570)、大友氏の肥前侵攻に対して竜造寺氏は「今山合戦」において、大友氏の大軍を撃退。ここに、 龍造寺隆信の名声があがり、肥前一国を従えた隆信は、さらに兵を筑後・肥後・豊前などに進め、大友・島津と九州を 三分する勢いを示し、竜造寺氏の全盛期を現出したのである。 九州戦国三強 ●大友氏の場合 大友氏は豊後地方に土着し、初代能直、二代親秀の代に詫摩・一万田・志賀・田原・戸次らの一族諸家を創出し、ここに大友一族各家が成立した。南北朝の内乱以後、大友宗家は、これら一族各家のうち本家に忠実な有力庶家に支えられながら、直臣団の強化と遣明貿易からうる経済力などによって、巧みに守護領国体制を展開した。 九代氏継以降、弟親世系との間にしばらく両統交立がみられたが、義長のころになると長子単独相続制が確立し、大友宗家の権力が強化された。さらに、義長の時代には、庶家や譜代直臣(同紋衆)のほかに、他姓衆である在地領主の家臣団化が推進され、次の義鑑の時代になると、大友一族六十家・他姓一族百家からなる大友家臣団が成立し、戦国大名へと発展した。 義鎮の時代になると、分国の拡大が急速に進められ、一時大友氏は、豊前・豊後のほか、筑前・筑後・肥前・肥後の六ケ国を版図に加える勢いを示したのである。こうした分国の拡大に伴い、戸次氏の筑前立花移封にみられるように、同紋衆を現地に派遣し城督に任命して、征服地の掌握につとめた。しかし、立花移封後の戸次氏は、大友氏の意図とは裏腹に、次第に独自的な分権権力としての性格を強めていった。 また、大友氏は家臣団の編成において、在地領主の地域的な結合単位である一揆や衆中を支配の基盤とし、有力家臣に対しては、所領に対する検断不入の原則を認めたり、夫役免除の特権を与えるなど、分国に対する土地所有権の掌握はきわめて不十分であった。 ●大友宗麟 画像 ●龍造寺氏の場合 少弐氏にかわって台頭した肥前の龍造寺氏は、水ケ江龍造寺系の隆信が本家の村中龍造寺家を相続したのち、北九州の計略をめぐる大内→毛利氏と大友氏の対立を利用して急速に勢力を拡大した。特に元亀元年(1570)、大友氏の大軍を佐賀で敗北(今山合戦)せしめた隆信は、まず、大友氏の勢力圏にもっとも近い東部肥前を平定し、次いで大友氏の与党の多い北部肥前を降し、さらに西部・南部肥前に進出して、天正六年までに肥前制覇を完了した。 さらに隣接諸国に対する経略をただちに開始し、こうして天正八年までに筑後一国のほか、肥後・筑前の半国および豊前三郡を征服し、今山合戦以来わずか十年の間に、いわゆる「五州の大守」に発展したのである。ここに、龍造寺・大友・島津の三氏鼎立時代を迎えた。 龍造寺氏の征服地に対する支配の仕方は、佐賀地方を中心とする肥前八郡に対しては、有力な在地領主との養子縁組み政策や、龍造寺・鍋島一族の要地配置を通じて、強力な支配権を打ち立てたのに対し、多良山脈以西・以南の肥前三郡に対しては、松浦・大村・有馬氏らの戦国大名などから起請文を懲し、あるいは人質を提出せしめるなどにとどまり、その支配の実態はきわめて脆弱な基盤の上に立っていた。 特に肥前以外の分国においては、龍造寺氏の麾下に属した在地領主の離反、家臣化が繰り返され、これまたきわめて不安定な基盤の上に立っていた。こうした傾向は、薩摩・大隅・日向の三州を統一した島津氏の北上とともにいっそう著しくなってくる。 ●龍造寺隆信 画像 ●島津氏の場合 島津氏台頭の基盤となった南九州は、遠隔地型の荘園体制のもとにあって独自の在地構造を持っていた。しかも在地領主の力が強く、小地頭と惣地頭の内紛も激しいものがあった。なかでも島津氏の守護領国制の展開をいっそう困難にしたのが島津一族の内訌である。島津氏は、初代忠久以来十代忠国までの間に、若狭・越前・伊作・総州・奥州・薩州・豊州・相州の各島津家のほか、山田・町田・伊集院・新納・樺山・北郷・川上氏らの一族庶家を創出した。 このうち、総州島津氏(七代伊久)と奥州島津氏(八代元久)との間に争いが起こり、足利幕府は、応永十一年(1404)両者を和解せしめ、元久に日向と大隅、遅れて薩摩の守護織を与えた。ところが元久が没すると、今度は元久の弟久豊と伊集院頼久との間に不和が生じ、両者は諸所において合戦、一進一退ののち、久豊は頼久を制圧した。しかし、島津一族の内訌は絶えず、これに国内勢力である在地領主との軋轢が加わって、三州は対立と分裂に明け暮れた。特に忠治・忠隆・勝久の三代の間は、いずれも幼弱で、守護家の権威を凋落し、島津氏の冬の時代であった。 こうしたなかで、島津本家を再興し三州の統一に成功したのが伊作島津氏の貴久である。貴久は大永六年(1526)守護家を継いでより、一族間の内訌に終止符を打ち、子の義久・義弘・歳久・家久らの協力によって、島津氏雄飛の基礎を作った。まず薩摩・大隅を固めて、菱刈・渋谷・肝付らの有力な在地領主を降し、他方、日向は、豊州島津忠親の協力によってこれを収め、ここに三州の統一に成功したのである。 島津氏はこの過程を通じて、群小の在地領主を家臣団に編成しながら、外城制という独特な在地支配の方法を用い、外城支配下の衆中には、島津氏の直臣団を配置して、城下の麓に居住させ、外城の軍事力を構成するとともに、農村支配も担当させた。 こうして島津氏は、強力な在地支配の体制と、それを基盤とする戦国大名権力を作り上げた。そこに、大友氏や龍造寺氏との権力構造の違いを見い出すことができる。 ●島津義弘 画像 三すくみ体制の止揚 三州を統一した島津氏は、豊後より南下してきた大友氏と対立したが、天正六年(1578)、これを日向の高城(耳川合戦)で破り、これより大友氏は守勢に立たされた。龍造寺隆信の筑後経略は、この間隙を縫って進められたが、その結果は龍造寺氏と島津両氏の対立となった。 島津氏は、日向から肥後に進出したが、龍造寺氏は、鍋島直茂以下の主力を肥後に派遣する一方、筑前に進出して西南九郡を領有し、さらに龍造寺信周を豊前に派遣して北三郡を平定し、その勢力をもって島津氏に対抗したのである。 筑後の在地領主の龍造寺氏からの離反は、このころから著しくなった。天正八・九年の蒲池鎮並、翌十年の田尻鑑種の離反がそれを代表する。こうして、天正十二年三月、龍造寺・島津両氏は全面対立したのである。隆信は鍋島直茂の諌言に耳を貸さず、大軍を率いて高来に南下したが、戦場においても直茂の戦術を突如変更し、みずから中央突破をこころみて、島原沖田畷で戦死した。 隆信の戦死によって九州の政治地図は大きく変化した。龍造寺・大友・島津三氏の均衡関係が崩壊したのである。龍造寺氏は、隆信の嫡子政家が家臣鍋島直茂の補佐によって、ようやく旧領を保守する有様となった。直茂は、隆信の死後活発となった大友氏の動きに対抗して、筑後の防衛を固めた。ところが、大友方の強力な反撃の前に、筑後の諸士は多く大友方に帰参した。当時、八代にあった島津義弘は、三州の大軍をもって北上し筑後に侵攻した。こうして、龍造寺・大友・島津三氏の最後の攻防戦は筑後を舞台に展開されたのである。 天正十三年(1585)、まず大友氏が龍造寺・島津両軍の挟み撃ちにあって敗北した。ところが翌十四年における筑紫広門の島津離反をきっかけに、島津軍は筑前・肥前に討ち入って広門を降し、高橋紹運の岩屋城、立花宗茂の立花城を攻撃した。このとき、紹運は自刃したが、宗茂は立花城に籠って最後まで抵抗した。 ここで、島津氏は筑前平定と豊後討伐を評議して結果、後者を優先させることとし、大友氏の本拠豊後に突入した。すでに大友氏が豊臣秀吉に救援を求めていたからである。大友宗麟の子義統は、島津軍の全面攻撃を受けて豊前に逃れ、豊後は島津氏の支配下に入った。 こうして三州を統一するのに五十一年を要した島津氏は、三州統一後わずか十年の間に、中世以来の三すくみの体制を止揚させ、ほぼ全九州を制覇することに成功したのである。 九州戦国時代の終焉 天正十三年(1585)、四国平定を完了した秀吉は、島津氏に対し大友氏との講和を命じたが、島津氏は、これを拒否して大友氏を攻撃したため、ついに秀吉は島津征伐を意図し、同十五年、大軍を率いて九州に出陣した。ここで全九州の大名は、秀吉に帰参するか島津氏に味方するかの二者択一の立場に立たされたが、立花宗茂・鍋島直茂をはじめ、北および中九州の大名は、いっせいに立ち上がり、秀吉に帰参して島津攻撃軍に加担した。こうして、島津軍は総崩れとなり、鹿児島に退いて降伏した。 秀吉の九州平定によって、九州は豊臣権力を中心とする新しい幕藩体制の支配のなかに組み込まれた。 ここに、三強の鼎立状態が続いた九州の中世=戦国時代は終焉を迎えたのであった。 【出典:戦国大名系譜総覧所収=藤野 保氏論文】 CONTENTS ●鎮西-戦国通史 ●戦国大名伝 ●大名/国人総覧 ●三強合戦記 ●三強の軍旗 ●戦国武将割拠図 ●戦国武将家紋地図 ●三強人物伝 ・島津義弘・島津義久・竜造寺隆信・大友宗麟 |