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氏家氏
●巴/石持ち地抜き三つ巴
●藤原北家宇都宮氏流  
・『太平記』に描かれた氏家氏の楯に記された紋、近世熊本藩士の氏家氏の家紋は「三つ巴」であった。紋伊達氏に仕えた氏家氏の指物は「並び矢」、旗紋は「九曜」と記されている。  


 氏家氏は、藤原北家宇都宮氏流といわれ、宇都宮朝綱の子公頼が下野国芳賀郡氏家郷を領し、氏家を名乗ったことに始まる。「宇都宮系図」によれば、公頼の弟にあたる人物として小田氏の祖となる八田知家がおり、氏家氏は早い段階に宇都宮氏から分かれた家であった。
 一説には、公頼から三代の経朝の甥重定が、鎌倉時代の正安年中(1299〜1301)に越中に移り、南北朝時代初期の建武四年(1337)奥州探題に任ぜられた斯波兼頼の執事として随行したのが奥州氏家氏の始めという。しかし、南朝方の新田義貞を越前国藤島に攻めて討ち取ったのは斯波高経で、奥州探題となった家兼は高経の弟である。加えて先の斯波兼頼は家兼の子で、出羽按察使として出羽に入った人物である。
 『美濃国諸旧記』の「氏家のこと」によれば、氏家氏は越中の出身だとしている。すなわち「氏家の先祖は、越中の国の住人なり。中頃足利尾張守高綱の与力にして、氏家中務丞重国というて、延元のころ、北国の戦に武功あり。殊に延元二年閏七月二日、越前国足羽郡藤島の郷に於いて、新田義貞の首を取って、京都に差し上げける。尊氏将軍、其功を賞せられて、美濃国にて闕所の地を多数給わり、是より当国に来り、石津郡高須の庄に住せり」と記されている。

美濃氏家氏の発展

 奥州氏家氏の初代とされる重定の子重国は越中にとどまり、新田義貞の首を取った恩賞として美濃に領地を賜った。重国の後裔は累代美濃に居住し、守護および守護大名として発展した土岐氏の被官として存続していったのである。
 重国は高須城に拠り、宗国を経て盛国の代に安八郡楽田に城を築きそこに移った。盛国は斎藤利家の女を室に迎え、弟某は石津郡沢田に、弟利正は石津郡一瀬に住して一瀬を称するなど美濃に勢力を扶植していった。そして、行国の代に大垣牛屋城(大垣城)、ついで石津の沢田城に移り、その子行隆は牧田城に移っている。
 行隆の子が友国で別に直元を名乗ったといい、出家して氏家常陸介入道貫心斎卜全と号した。名前としてはこの卜全がよく知られている。卜全の母は美濃守護代斎藤利藤の子長井利隆の女で、はじめ楽田城主であったが、永禄二年(1559)より大垣牛屋城に住み、土岐頼芸・斎藤義竜・竜興に仕えた。稲葉一鉄・安藤伊賀守守就と並んで「美濃三人衆」あるいは「西美濃三人衆」などと呼ばれ、美濃斎藤氏の重臣であった。
 織田信長の美濃攻勢が開始されると、斎藤義竜の命を奉じてよく織田勢の侵攻に対した。しかし、義竜が病死し竜興の代になると、稲葉一鉄・安藤伊賀守らとともに竜興に背いて織田信長に属するようになった。信長に属した卜全は、元亀二年(1571)の伊勢長島一向一揆との戦いに出陣して活躍、強力な一揆軍のため石津郡太田郷安江村において討死してしまった。卜全の討死後は、嫡子左京亮直重が大垣城主となり、その弟内膳正行広は三塚城主となって一万五千石を領した。
 天正十年(1582)、織田信長が本能寺の変で横死したのち、直重は弟行広・行継らとともに豊臣秀吉に属した。しかし、慶長五年(1600)の「関ヶ原の合戦」で西軍に属して所領を没収され、氏家氏は没落の運命となった。子孫は、肥後細川氏に仕官して明治維新に至ったと伝えられている。・2005年7月19日

参考資料:岩出山町史/岐阜県史/氏家町史 など】


■参考略系図
・氏家氏の系図に関しては『氏家町史』に、詳しい考証がなされている。  


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