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永井氏
黒餅に鉄線
(桓武平氏長田氏流/大江氏流)


 先祖は長田左衛門尉親政というが、長田が源義朝を討ちとった家号であるため、家康の命で大江氏となり永井を称した。永井氏は重元のとき家康の父広忠に仕えた。広忠は三河国大浜郷に砦を築き、重元に守備させた。天正十年(1582)、織田信長の横死のあと、家康が伊賀越えで伊勢の白子に上陸したとき、重元は船を用意して三河の大浜郷の自身の館に迎えたえという。永井氏は大浜郷の領主であったようでもある。
 重元の子が直勝で、かれは家康に仕え、見込まれて嫡男信康の近習を務めた。不幸にして信康が亡くなってからは、もっぱら旗本として戦場に立ち、天正十二年(1584)の長久手の戦いでは、秀吉方の将、池田恒興を討ちとり、味方を勝利に導くとともに、一躍勇名を轟かせた。
 直勝に討たれた恒興は信長の乳母の子で、本能寺の変後、清洲会議で柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀らと並んで宿老の四人のひとりに数えられたほどの人物。後年、恒興の次男で、家康の娘婿にあたる輝政は、直勝と雑談におよんだおり、ふと「その方の禄はいかほどか?」と尋ねたことがあった。直勝が七千石だと答えると、輝政は「我が父ともあろう人の首にしては、安いものよのう」と冗談まじりにこぼしたという話が伝わっている。
 武将としての直勝の名は、朝鮮の役のおりにも秀吉から「比いなき勇士よ」と賞賛され、面目を施している。慶長元年には、従五位下・近衛大夫に任官。
 しかし、直勝は単に武功を重ねたのみならず、関ヶ原の役が終わってのちは、天下を平定した家康の片腕となって、その論功行賞をめぐる直参と大名家の反目を調停する任にあたった。なかでも井伊直政や本多忠勝に意見した話は有名である。
 直勝のこうした活躍は、元和三年(1617)の常陸国笠間三万二千石、同八年の下総国古河へ七万二千石の加増移封というかたちで報われ、幕府の評定衆に列する栄誉をも担うこととなる。晩年、細川藤孝について、有職故実を学び、徳川家の礼儀、幕府の式典を定める重責を担った。


永井氏の家紋

 『長倉追罰記』に「永井と那波は三つ星と一文字(本当は一文字に三つ星)」ともみえるように、室町中期には、永井氏がすでに一文字に三つ星紋を用いていたことが知られる。


一文字に三つ星/永井梨切口/石持地抜き唐梨

 そして、永井氏は一文字に三つ星紋の他に、唐梨(からなし=木の下に示とも表記する)と、鉄線紋も用いていた。唐梨は四弁の花のように見えるが、梨の実の切り口で、丁寧には「永井梨切口」という。鉄線は朝顔に類似した植物で、その蔓が鉄のように丈夫なことから鉄線と呼ばれるようになった。そして、宗支によって、家紋の意匠を違えている。三つ星の場合、一文字の書体に変化をつけ、唐梨は加納永井家の場合、「石持地抜き唐梨」であった。さらにいえば、鉄線は高槻永井氏が用いていた。
 いずれにしろ、唐梨紋は永井氏の独占紋ともいえる、珍しい紋であろう。





■参考略系図  
  


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