|
隅田氏
●撫 子
●藤原姓/紀州古代豪族裔?
『由来記』によれば、戦国時代、畠山氏に尽した功により賜ったものという。
|
|
隅田氏は石清水八幡宮領の隅田庄を本拠に、中世を通じて紀伊の歴史に足跡を残した。隅田氏が拠った隅田庄は、寛和年間(985〜987)、藤原兼家が石清水八幡宮に建立した御願三昧院の料所として成立した。それもあって、隅田庄の本家職は藤原氏、領家職は石清水八幡宮が保持したが、鎌倉時代には石清水八幡宮の領有する荘園となった。
長治二年(1105)、長忠延が隅田八幡宮若宮造営の功で俗別当となり、天永二年(1111)に隅田庄の公文職となった。これが端緒となって、隅田氏は荘園管理と八幡宮の神事の権限を掌握、隅田庄に勢力を扶植していった。その出自は藤原氏の後裔を称しているが、忠延の名乗る「長」姓は伊都・那賀郡にみられる古代豪族の姓であり、忠延はその系統に連なる在地豪族であったと思われる。のちに本家職の藤原姓を名乗るようになり、忠延の系統が隅田一族の惣領になったのである。
鎌倉時代においても、隅田氏の嫡流は隅田庄の公文の地位にあり、一族が庄内の各地に分出した。一方で、上田氏などの他氏を包摂し、党的武士団を構成した。隅田氏はいわゆる西国御家人で、地頭職には補任されなかったが、十三世紀中葉以降、隅田庄の地頭になった北条氏の被官となり、地頭代職の地位を与えられた。隅田氏は承久の乱に際して幕府方として行動していることから、紀伊守護職を世襲した北条氏に重用されるようになったものであろう。
隅田党の発展期は十三世紀後半で、宗家から葛原氏、芋生氏、垂井氏などがつぎつぎと分かれている。隅田党は規模のうえでは小武士団に過ぎなかったが、紀伊守護北条氏がしばしば六波羅探題を兼務したことから、奉行人として京都に出仕するようになった。鎌倉末期の元弘の乱(1331)には、隅田忠長が六波羅検断・軍奉行として御家人を指揮するまでになっていた。その結果、隅田惣領家は北条氏と運命をともにし、元弘三年(1333)、惣領をはじめ一族十一人が近江国番場において戦死している。
隅田党の成立
元弘の変で惣領が討死したことで隅田氏は一族の上下関係が不鮮明となり、党的色彩を濃くしていった。正平二年(1347)八月、楠木氏の重臣和田助氏が隅田城に拠って武家勢力を防いだが、このとき隅田党は助氏に助力して活躍している。正平四年には、上田虎正丸が後村上天皇より隅田荘一分地頭職を安堵されている。南北朝時代、隅田一党は南朝方として行動したようだが、一党のなかには武家方に通じるものもあった。
南北朝の動乱は荘園制の崩壊を招き、隅田一党は石清水八幡宮の勢力を排除して、隅田庄を押領するようになり、小領主的地位を確立していった。隅田党は同族だけではなく他氏も包含したが、さらに高野山領の官省符庄の「政所一族」とも連携して行動するようになった。
政所一族とは高野山領である官省符庄の「四庄官」高坊・田所・亀岡・岡氏と官省符庄の政所所司小田・大野・塙坂氏らが武士化、四庄官と政所所司とが「政所一族」と呼ばれる武士団を構成したものである。南北朝時代後期の康暦二年(1380)、紀伊南朝方の挙兵に隅田一党と政所一族が呼応し、両者は一党として行動していたことが知られる。また、南北朝合一後の明徳五年(1394)、政所一族の高坊行敏・塙坂朝治・亀岡源忠と隅田一族の上田貞範・葛原秀広らが連署して、隅田宮神用の地に関して誓約書を作成している。
応永の乱後、紀伊守護職は畠山氏が世襲するところとなったが、畠山満家が隅田荘地頭職を安堵した宛先は「隅田一族中」とあり個人名ではなかった。さらに、応永二十九年(1422) 隅田一族二十九家が同盟的機構を持っていたことが記録から知られる。このように、隅田一党は同族、他氏を併せて紀州の一角に一定の勢力を保持したのである。
紀伊守護の変転
永和四年(1378)、南朝方の橋本正督が挙兵、隅田一族と高野政所一族はこれに呼応した。南朝勢は守護細川業秀を敗走させる勢いを示し、幕府は山名義理を紀伊守護職に任じ南朝勢の鎮圧を図った。康暦二年(1380)、正督は滅ぼされ紀伊守護職は義理が改めて安堵された。隅田一族は『花営三代記』に「紀州凶徒高野政所併隅田一族等没落」と記されているように、相当の挫折を味わったようだ。
紀伊南朝の反乱を征圧した義理は紀伊・美作守護を兼帯するようになり、山名氏一族は十一ヶ国の守護職を独占、「六分の一衆」と呼ばれ大いに権勢を誇るようになった。しかし、その繁栄は長くはつづかず、惣領山名時義の嫡孫系と、庶子系の山名氏清・山名満幸らの間に不和が生じた。これに山名氏の勢力削減を目論む将軍足利義満が乗じ、山名一族の解体に取りかかった。明徳二年(1391)、義満の挑発に乗せられた満幸は、一族の山名氏清・山名義理らと結び、兵を挙げた。山名勢と幕府軍は京の内野で激突、敗れた山名満幸は丹波に敗走、氏清は赤松・大内勢と戦い討死した。義理は兵を発しなかったものの、乱後に守護職を失い没落した。
明徳の乱に功を挙げた大内義弘は、紀伊・和泉両国の守護職を賜り周防・長門・豊前などと併せて六ヶ国の守護を兼ねるようになった。さらに、南北朝合体の根回しに尽力するなど、その盛名はおおいにあがった。結果、将軍義満に警戒心を起させ、応永六年(1399)、両者の間は決裂、義弘は鎌倉公方足利満兼をはじめ土岐氏・京極氏、さらに旧南朝勢と結び公然と幕府に叛旗を翻した。義満率いる幕府軍に対して義弘は善戦したが、最期は猛火の中で自刃して滅んだ。この大内氏の乱(応永の乱)に、隅田一族は義弘に味方し、隅田八郎左衛門、芋生信濃守、上田主水、塙坂和泉守らが討死した。
乱後、隅田一族は所領の大半を没収され、わずかに懸命の地を保つばかりとなった。大内義弘が滅んだのちの紀伊守護職は畠山基国が補任され、隅田一族は畠山氏の被官として歴史を刻むことになる。
畠山氏の内訌
南北朝合一後、室町幕府体制は確立されたが、守護大名の強大化、将軍の非力などがあいまって決して磐石ではなかった。将軍足利義持の死後、籤引きで新将軍となった足利義教は将軍権力の強化と幕政の復活に尽力、万人恐怖という専制政治を行った。一色氏、土岐氏らが粛正の波にさらわれ、紀伊守護畠山持国も逼塞状態におかれた。しかし、嘉吉元年(1441)、義教は赤松満祐の謀叛で殺害され、将軍権力と幕府の威勢は大きく動揺した。嘉吉二年(1442)、畠山持国は管領に返り咲き、その出仕始めの隋兵に隅田三郎五郎能治・塙坂能保ら隅田一党が供奉した。
実子に恵まれなかった持国は弟の持富を養子としていたが、実子義就が生まれたことで持富を廃して義就を後継とした。しかし、家臣団の反発にあって断念、あらたに持富の子弥三郎を後継者とした。しかし、すでに家臣団は義就派と弥三郎(のちに弟の政長が継ぐ)派とに分裂しており、畠山氏家中は内部抗争へと発展した。持国死後、両派の対立はさらに激化、事態は応仁の乱へと連鎖していくことになる。
寛正元年(1460)、政長は河内若江城に義就を攻撃、隅田肥前守能継が出陣した。同四年、義就が高野山に奔ると政長は紀州に在陣、隅田孫左衛門能富が政長に忠勤を励んでいる。隅田一党は政長方として行動したが、一枚岩ではなく、『畠山記』には岡城において高坊入道、隅田葛原秀一らが義就に同心、隅田肥前守能継は遊佐氏らとともにこれを攻めたと記されている。
応仁元年(1467)、細川勝元を頼んで京都御霊社に陣取った政長軍を山名宗全を後楯とした義就が攻撃したことで応仁の乱が勃発した。以後、十一年間にわたって戦いが繰り返され、世の中は下剋上が横行する戦国時代へと突き進んでいった。
応仁の乱が終わったのちも政長と義就の抗争は止むことなく、河内・大和・紀伊などの国人を巻き込んで戦いが続いた。やがて義就が死去すると政長は幕府管領に任じられ、権勢を振るうようになった。明応二年(1493)、政長は義就のあとを継いで抵抗を続ける基家(義豊)を討つため将軍義材(義稙)を奉じて出陣、隅田氏もこの陣に参加した。明応のころ、隅田一族は隅田能継・能房・明紀、上田秀常ら二百三十騎を数えたといい、相当の勢力を誇っていた。ところが、細川政元がク−デタが起し、窮地に陥った政長は河内正覚寺において自害し、嫡男の尚順は紀州に奔った。隅田一党の進退は不明だが、事態の急転により紀州に逃げ帰ったものとみられる。
果てしなき乱世
畠山氏の内訌は義就・政長の死後、それぞれ後継者である基家・尚順に引き継がれ、抗争が繰り返された。明応期、畠山氏の重臣である遊佐氏と誉田氏が河内を舞台に抗争を展開すると、隅田氏は遊佐氏に味方して明応九年三月、隅田肥前守が誉田孫七郎を攻めている。ついで、七月には隅田蔵人能房・肥前守能継が遊佐氏とともに大和吐田庄で合戦したことが軍記などに記されている。
明応八年、尚順は河内十七ヵ所の戦いで基家を倒したが、細川政元に敗れ紀州に奔って河内復帰を画策した。その後、永正四年(1507)、細川政元がみずからが招いた家督争いによって、家臣に殺害されると尚順は将軍義澄を奉じて上洛を果たした。しかし、家臣の離反にあうなどして紀州に奔ったが、永正十七年(1520)、尚順は紀伊国人に追放され、堺に逃れた。後に京都を追われた足利義稙(義材)と共に淡路に逃れ、同地で死亡したという。尚順の嫡男稙長は高屋城にあったが、畠山義英(基家の子)と越智家全の攻撃を受け逃走。この稙長に隅田能房が仕えて活躍、ほどなく稙長は高屋城を回復した。
このころの畿内は、泥沼化した畠山氏の内訌に加えて両細川氏の乱が展開、そのようななかで畠山氏・細川氏の被官が跋扈し、文字通り麻が乱れるごとき状況を呈していた。天文二年(1533)、稙長は河内に侵攻してきた三好氏を攻撃、その陣に隅田孫四郎能康・上田貞信・芋生能康・松岡右京亮・葛原忠直らが加わっていた。翌三年、木沢氏ら重臣が弟長経を擁立したため稙長は失脚、紀伊に逃亡した。
天文十一年(1542)、木沢長政が細川晴元政権に謀反を起こし敗れたことで、高屋城を回復した稙長は河内守護に復帰した。稙長は河内飯盛城に立て籠る木沢長政残党を攻め、さらに和泉国・松浦氏を討たんとした。この稙長の軍事行動の中核をなしたのは紀伊衆であり、それに河内・大和・南山城・和泉の勢力が参加していた。ともあれ稙長は河内から紀伊を支配下においたが、河内守護代に遊佐長教を任命したことで遊佐氏の勢力増長を招いた。
畠山氏の没落
天文十四年、稙長が死去すると、畠山氏の家督は弟の政国、ついで政国の嫡男高政が継承した。高政はなかなかの勇将で、河内・摂津を舞台として三好勢と戦いを繰り返した。天文二十一年、和泉に出陣した高政軍の旗下に隅田能武・塙坂秀信・上田貞房・芋生秀清らが参陣していた。
永禄元年(1558)、河内において三好勢と戦った高政は、守護代安見氏の離反によって大敗、堺へ出奔した。翌年、三好長慶と和睦して高屋城に復帰したが、ほどなく長慶と対立、ふたたび高屋城を失った。河内奪回を目指す高政は六角承禎と結び、永禄五年、久米田の合戦において三好実休(義賢)を戦死させる勝利をえた。しかし、ほどなく三好軍に敗れて紀州に逃れ、畠山勢は壊滅的打撃を被った。これら永禄年間の畠山氏と三好勢との戦いにおいて、隅田党は畠山方として出陣、軍忠を尽くした。しかし、畠山氏の威勢は低下の一途をたどり、隅田党の勢力も次第に衰亡を見せ始めた。
永禄十一年(1569)、織田信長が足利義昭を伴なって上洛した。高政は信長に属して将軍・義昭より河内半国守護に任命されたが、遊佐信教、安見宗房らが高政の弟政頼を擁立すると紀伊岩室城に逃れた。政頼も信長に属し、将軍義昭から一字拝領して昭高を名乗った。元亀元年(1570)、信長の本願寺攻めに畠山氏が参陣すると、隅田党も畠山氏に従って出陣した。元亀三年、畠山昭高と三好義継が河内・摂津において戦うと、隅田党も畠山方として出陣したが、戦いは畠山勢の敗北に終わった。
信長の妹を妻とした昭高は、天正元年(1573)、専横を極める遊佐信教を排除しようとした。しかし、先手をうった遊佐信教の謀反によって自害に追い込まれる結果となった。弟の死を知った高政が信教を攻めたが却って敗れ、畠山氏はまったく没落した。ここに至って、主を失う格好になった隅田党は信長の傘下に入った。
中世の終焉
天正九年(1581)二月、盛大に催された信長の馬揃え式に、隅田党も参加したことが知られる。同年九月、信長の高野山攻めが起ると、隅田党も参戦して信長軍の一翼を担った。その後、秀吉時代になると文禄の役に従うなど軍役をつとめたが、次第に勢力は衰え武士団としての隅田党は終焉を迎えた。
隅田氏は隅田地方の土豪として重きをなし、荘園的勢力を駆逐して、領主制を展開するに至った。やがて畠山氏に属し部将として軍忠を励むが、畠山氏の衰亡とともに隅田氏も衰退を余儀なくされた。そして畠山氏が没落したのちは主君として仕える大名もなく、みずからもまとまった領主的武士団でなかったこともあって、隅田一族の各家がそれぞれ独自な行動をとらざるを得なくなったことで隅田一族は武士団としての形態を崩壊させ、ついには郷士として近世を迎えることになったのである。
かくして、隅田一族は中世を通じてさまざまな地方で合戦に従軍したが、とくに認められることもなく、やがて故郷にかえり農業に従事した。一族のなかには、紀伊徳川家に仕えたものもあった。・2007年12月05日
【参考資料:橋本市史/政所一族と隅田一族/大阪府史・中世編/和歌山県史・中世編 ほか】
■参考略系図
「旧高野内領文書・文永五年(1268)成立隅田系図」「和歌山県の歴史」などを参考に作成。
|
|
応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
|
|
戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
|
|
日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
|
|
人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
|
|
どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
|
|
|