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須田氏
鸚鵡の丸/丸に揚羽蝶
(清和源氏井上氏流)
*「米府鹿子」「須田一族」より。
 旗本須田氏は揚羽蝶紋を用いている


 須田氏は、清和源氏頼季流井上満実の子為実を祖とすると伝えられるが、源平の争乱時代には歴史の表舞台に登場していない。しかし、乱後、須田小太夫が鎌倉御家人となって源頼朝の随兵を勤めていることから、平安末期以来、高井郡の在地武士として発展途上にあったと思われる。しかし、同族とされる井上・高梨氏のように有力な存在ではなかったようだ。
 須田氏は須田郷を本貫の地とし、それによって須田を名字としたことは間違いなく、中世的な須田郷の開発領主であったようだ。須田郷の詳細はよく分からないが、その中心は旧小山村であったようで、さらには旧須坂村も含んでいたと思われる。つまり、須坂扇状地の中央部分が須田郷を形成していったものであろう。そして、小山に居館を構えて行政・勧農・軍事の拠点としたと考えられるが、その痕跡は伝わっていない。

須田氏の発展

 鎌倉時代の須田氏としては、先述のように源頼朝が入洛したときの随兵中に須田小大夫がみえている。須田氏は須田郷を本拠として大岩郷にも進出していたようで、そのことは、『諏訪上社大社文書』に「外垣ニ間大岩上・下」とあり、大岩郷内は上条・下条に分かれて開発が進んでいたことが知られる。そして、須田氏の大岩郷支配は鎌倉時代後期のころからと思われる。
 大岩郷の大谷の鎌田山に古城とよばれる要害が残り、その麓に二町歩ほどの平地があり、そこが須田氏の居館祉であったものと考えられている。また、須田氏は米子へも進出していたようだ。すなわち、足利尊氏と弟の直義が争った観応の擾乱(1352=観応三年)のとき、須田入又四郎は足利尊氏に属して米子城に立て籠って直義党軍と戦っている。このことは、須田氏が早くから米子の地に進出して支配を固めていなければ、難しかったであろう。
 その後、南北朝の内乱が終わり守護権力が確立されてくると、信濃の国人衆らはみずからの権益を守るため連合して守護権力と対抗した。そして応永七年(1400)、新信濃守護小笠原長秀と村上氏を盟主とする国人連合が激突した。この「大塔合戦」に際して、須田伊豆守が国人勢力に属して出陣している。室町時代における須田氏の動向は必ずしも明確ではないが、、永享の乱のころには須田為矩、須田式部丞らがおり、そして、諏訪神社の記録である『諏訪御符礼之古書』の室町時代後半の記述には、須田上総介満繁、須田信濃守祐国らの名がみえている。しかし、これら須田氏の系図上の関係は必ずしも詳らかではない。
 いずれにしろ須田氏は、室町時代末期から戦国時代にかけて封建領主制を展開し、井上氏らと同様に発展をみせたのである。そして、鎌倉時代以来の惣領制を克服して、所領も分割相続から単独相続に変わり、惣領の権力を強化していった。そして、井上氏領を蚕食するなどして支配領域を拡大していったのである。

戦国争乱と須田氏

 戦国時代に入ると、須田郷に乱入した井上某を撃退した須田雅政がおり、須田満信の勢力は千曲川西の布野、古野、矢島奥にまで拡大された。その後、須田氏は信頼・その子信正の系統と、満国・その弟満泰と満国の子満親の系統に分かれるようになった。満国の系統は大岩郷に拠り、信頼の系統は須田郷に拠って互いに対立するようになるのである。一方、領主間対立の激化のため、須田氏らはより大きな勢力に従属し領域支配の安定をめざした。当時、北信濃では坂木(坂城)城主の村上氏が勢力を拡大し、川中島地方にもその勢力を及ぼすようになっていた。川中島地方に村上氏の勢力が及んだ背景には、国人領主たちが自家保全のためにより強力な勢力のもとに結集した結果と考えられる。こうして、周辺の国人層を結集した村上氏は戦国大名への道を歩んでいくことになる。
 戦国期の信濃は守護小笠原氏と村上氏の二大勢力が並び立ち、それに諏訪氏・木曾氏らの中小豪族が割拠し、それぞれ競合する国人を傘下に収めて、戦国大名へ飛躍しようとしのぎを削っていた。
他方、信濃の隣国甲斐では武田信虎が国内の反対勢力を制圧して統一を実現、信濃への侵攻を開始した。その後、信虎は嫡子の晴信に国外追放され、晴信(のちの武田信玄)が武田氏の当主となった。晴信は対外的に大きく発展しようとの野望を抱き、その鋭峰は有力な戦国大名のいない信濃に向けられた。
 天文十一年(1542)、晴信は隣接する諏訪の大名諏訪頼重を滅ぼし、伊那・佐久郡への侵攻作戦を展開した。晴信の信濃攻略の前に立ちはだかったのは、小笠原と村上の両氏であった。天文十七年、武田軍を上田原に迎え撃った村上義清は激戦の末、武田軍を破りその勝利に乗じて小笠原・村上・旧諏訪氏系の武士らは諏訪に攻め入った。しかし、塩尻峠の合戦で小笠原長時の軍が大敗し、これが致命傷となった小笠原氏は天文十九年本城の林城を自落した。とはいえ、小笠原氏はその後も村上氏と連絡をとって武田氏に抵抗を続けた。しかし、天文二十一年、ついに万事窮した長時は長尾景虎を頼って越後に亡命した。
 一方、村上氏に対する武田軍の二度目の攻撃は、天文十九年の戸石城攻めであったが、勇将義清の死守にあい、「戸石崩れ」といわれる大敗を蒙った。しかし、この間武田氏の北信諸領主に対する調略は着々と進められ、須田氏も武田方と村上方の二派に分裂したようだ。すなわち、武田方に須田郷の須田氏、村上=反武田方に大岩郷の須田氏が属するようになったのである。天文二十年、戸石城は真田幸隆の奇略によって落ち、二十二年になると村上氏の本拠地坂城城への攻撃が始まった。八月、晴信の出動で、ついに義清も坂城城を逃れて越後の長尾氏を頼った。

上杉謙信に属す

 永禄二年(1559)信玄は北信濃をほとんど占領し、越後境へ乱入した。翌三年には、北信濃支配の拠点として海津城を築いた。このような情勢の推移から、内部分裂を起こしていた須田氏の一方である満親は満国らとともに越後の長尾景虎を頼って須坂地方を退去した。越後に逃れた満親は越中船見の名代職となり、船見宮内少輔を名乗ったこともあったが、のちに須田に復している。
 信玄の北信濃侵攻に対して、上杉謙信は川中島の制圧を決意し、前後五回にわたって川中島で信玄と戦いを繰り返した。なかでも、もっとも激戦となったのは永禄四年の戦いで、九月十八日、謙信の軍一万八千と信玄の軍二万とが八幡原において激突した。上杉の先陣には、高梨政頼・村上義清・井上昌満・須田満親・島津忠直ら信濃衆が名を列ねている。合戦は初めは上杉方の優勢であったが、やがて武田方が盛り返し、上杉軍は越後へ退去したと伝わる。上杉・武田両氏の戦いは戦闘こそ互角であったが、武田氏の北信制圧は着々と進展し、鎌倉時代以来すすめられてきた須田氏らの在地支配秩序を根底からくつがえし、戦国大名の領国体制に組み込んでしまった。ここに至って、あるものは武田氏に仕え、あるものは越後の上杉氏をたよって故国を離れていった。
 ところで、上杉氏の麾下として須田満親が史料に登場するのは、天正九年(1582)四月の事である。それは、富山城主神保長住・佐々成政が上洛中に新川郡小出城を攻めたことに対して、菅屋長頼が非難の書状を須田満親・上条宣順宛に出したものである。上杉景勝の麾下となった満親は、上杉軍の越中攻略の先陣をにない越中の最高指揮官を務め、天正九年(1581)から十一年までの間、越中にあって松倉・魚津城の防衛と羽柴秀吉との交渉に知略を巡らした。そして、松倉城の撤退戦を指揮するなど、満親は武勇と知略に優れた武将ぶりを示した。
 天正十年、織田信長は武田氏を滅ぼしたが、信長も明智光秀の謀叛によって本能寺で横死した。信長の跡は明智光秀を山崎の合戦に破った豊臣秀吉が継承する形となり、曲折はあったものの上杉景勝は秀吉に帰属することになった。そして、景勝は天正十三年(1585)五月に上洛し、天正十六年五月にも再上洛し聚楽第で豊臣秀吉と対面した。このときの上洛には須田満親も同道し、同行した直江兼続、色部長真らとともに豊臣の姓を授けられた。
 天正十三年(1585)六月から奥信濃四郡を統括する立場で、海津城将となり検断権を含めた幅広い権限を委譲された。海津城での知行高は一万二千余石、上杉家中信州侍衆の筆頭であった。長野県上高井郡高井村の高杜神社に須田満親が奉納した天正十七年(1589)十月銘の願文が伝わっている。ここで満親は、豊臣秀吉との謁見が大変満足の行くものであり、上洛の大任を果たした喜びを表している。ちなみに、同年十二月三十日、従五位下・相模守に叙任されている。その後、慶長三年(1598)に上杉景勝は会津に移封となったとき、満親は家督を次男長義に継がせ、自らは先祖以来の信濃の地にある海津城において切腹した。一説には病死したのだともいう。
………
写真:海津城址(2001_11/24_改修工事中のころ)


伊達政宗軍を撃破する

 須田満親の長男光義は直江兼続の娘婿となっていたため、須田家の家督は次男長義が継いだ。長義は上杉景勝の会津移封に従い、陸奥梁川城で二万石の知行を得た。
 慶長三年(1598)八月に秀吉が死去すると、豊臣政権内では徳川家康と石田三成との対立が表面化していった。そのころ国元に帰っていた景勝は家康から再三の上洛命令を受けたが無視し続けたため、慶長五年、景勝は家康によって征伐を受けることになった。この家康による会津征伐こそが、関ヶ原の合戦の引き金となったのである。同年七月、家康に呼応した伊達政宗は上杉領に兵を出し、甘粕備前守の守る白石城に攻め寄せた。不意を襲われた白石城は防戦も空しく落城し、政宗の手におちた。十月、政宗は繁長が守る福島城へ兵を進めてきた。福島城の本庄繁長は、政宗の大軍が迫ってくるという報に接して、城に籠っていたずらに時日を移すよりは進んで出撃し、政宗軍を迎え撃とうと決心した。
 このころ、梁川城を守る須田長義は政宗が梁川城をまっ先に襲うであろうと信じ、油断なく備えを整えていた。、ところが、伊達の大部隊は桑折方面から福島に向かったという情報を得た。長義はただちに出動を命じ、阿武隈川を渡って伊達勢のあとを追った。そして、前田・桑折で伊達軍の小荷駄隊に追い付き、これをたちまち蹴散らし、摺上川を渡って急追し、松川北岸に至って渡河を終えていない伊達軍を捕捉し襲い掛かった。渡河の途中で背後から追撃を受けた伊達勢はたちまち大損害を受けて川中に追い込まれ、ほとんど壊滅した。長義はこれより先、早打ちで来援を福島城に告げ、福島城救援に向かった。
 長義の報に勢いをえた福島勢は、一層、奮い立って伊達勢を突きまくった。伊達勢は前後から挟撃を受けて、大混乱に陥った。こうして、伊達軍は二十倍もの戦力を動員しながら上杉勢に完敗したのであった。須田・本庄勢は伊達勢に勝利したとはいえ、関ヶ原の合戦に西軍が敗れたことで、景勝は会津百二十万石を没収され、改めて米沢三十万石に封じられた。

その後の須田氏

 須田長義も景勝の転封に従い、米沢に移住していった。大坂の陣に出陣した長義は、上杉軍の第一隊を率い鴫野の戦いにおいて後藤基次軍を相手に奮戦し、戦後の元和元年(1615)徳川秀忠から感状を与えられている。以後、子孫は米沢藩上杉氏の重臣として続いた。
 江戸時代、上杉氏は財政逼迫に陥り、養子に入って家督を継いだ上杉鷹山の活躍で窮地を脱出したことはよく知られている。鷹山が藩政改革に着手したとき、千坂・芋川らの重臣は鷹山の改革に反対し、長文の訴状を鷹山に提出した。『七家騒動』とよばれる事件で、反対派のなかに須田満主が名を連ねている。
 七家騒動は鷹山にとって最大の危機となったが、前藩主で養父にあたる重定が鷹山を支援したこと、家中の諸士が訴状の内容は誤りであるとして鷹山の改革に賛意を示したことで事件は落着した。そして、須田満主・芋川延親ら七家は切腹・閉門・知行召し上げなどの裁決を下されたのである。その後、赦され家名を立てることができ、米沢藩士として明治維新に至った。

参考資料:須坂市史(長野県立図書館蔵書)ほか】

■参考略系図


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