栗田氏
丸に上の字
(清和源氏頼信流) |
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栗田氏は「尊卑分脈」によれば、清和源氏頼信の子頼清を祖とする村上氏の一族である。すなわち、頼清の孫
村上蔵人顕清、その子村上判官代為国と続いて、為国の子寛覚がはじめて信濃国水内郡栗田郷に居住したことに始まる。
寛覚は戸隠権別当に任じ、栗田禅師を称し、子孫は栗田を称して北信の国人領主に成長した。鎌倉幕府の
公的記録とされる『吾妻鏡』の治承四年九月の条にあらわれる栗田寺別当大法師範覚が栗田氏の初見だが、
範覚は栗田禅師寛覚の誤記であろうといわれる。
治承四年(1180)九月、平家方の笠原平五頼直が木曽義仲を討つため、兵を木曽に進めた。それに対して、
源氏方の村山七郎義直や栗田寺別当大法師範覚らが笠原勢を市原で迎撃、両軍、戦闘となったが決着がつかず、
越後から城助職(長茂)が加勢に駆けつけ、戦いは有名な横田河原の合戦へと発展した。戦いは数に優る平家方が優勢だったが、
井上光盛の奇策が功を奏して源氏方の勝利に終わった
戸隠山、善光寺の別当職を兼ねる
鎌倉幕府が成立すると、寛覚は戸隠山別当に加えて善光寺別当にも任じられ、以後、栗田氏は戸隠山と善光寺の別当職を相伝した。
ところで、栗田氏代々が別当職に任じた戸隠山は、現在、戸隠神社として知られているが、そもそもは
嘉祥二年(849)に飯縄山の修行者「学説」が鬼を岩屋に封じ込めて戸隠寺を開いたことに始まったと伝えられる。平安時代後期、天台密教や真言密教と神道とが習合した神仏混淆の修験道が盛んになると、戸隠山は勧修院顕光寺と称する修験道の道場として全国的に知られる存在となり、修験道場戸隠十三谷三千坊として比叡山、高野山と並ぶ「三千坊三山」と呼ばれるほどに賑わった。
一方、善光寺は天台宗寺門派三井寺に属していたが、本来は無宗派で、その信仰は現世利益を求めるというより
阿弥陀如来にすがって後生の安心を求めるところにあった。いわゆる念仏という他力本願がその信仰の本質であって、
保元・平治の乱から源平争乱へと続いた内乱の時代に苦しむ庶民の信仰を集め、善光寺信仰は全国的に
普及するようになったのである。
そして、戸隠山、善光寺ともに源頼朝とは浅からぬ縁があった。頼朝は戦火で焼失していた善光寺を再建、
建久八年(1197)に戸隠山と善光寺に参詣、戸隠大明神と善光寺ノ如来とに仏詣社参を行なった。そして、
戸隠別当寛覚の屋形に宿泊して栗田ノ御所と名づけたという。寛覚は「清和天皇第六ノ皇子貞純親王
六孫王経基王ノ嫡シ多田ノ満仲ノ三男冷泉院ノ判官代鎮守府将軍信濃守頼信ノ二男村上頼清ノ嫡子仲宗ノ二男
村上顕清ノ二男崇徳院ノ判官代従四位下為国ノ子ニテ清和天皇七世ノ孫ナリ」ということで、
頼朝はともに源氏の末葉同士して栗田寛覚に親しく接したのであろう。
その後、信濃守護となった北条得宗家も善光寺に庇護を加え、善光寺と戸隠山の別当を兼帯する栗田氏は安泰期を過ごしたことと思われるが、鎌倉時代から室町時代にかけての栗田氏の動向は不明なところが多い。
■ 戸隠神社に参拝
(神社訪問記)
栗田氏の足跡を探る
寛覚の長子栗田太郎仲国は栗田城を築いて本拠とし、戸隠山の別当職は弟の栗田禅師寛明が継承した。そして、
仲国の系を里栗田、寛明の系を山栗田と称して栗田氏は二つの流れに分かれたのである。言いかえれば、
里栗田が武家として世俗を支配、山栗田が戸隠神社の別当として神仏を祀るという体制を形成したようにも見える。
その後、系図によれば男子のなかった里栗田朝国が、山栗田寛禅の子国寛を養子にしているのは里栗田と山栗田とが
一体化したことを物語っているようだ。そして、それは室町時代のはじめごろのことであったと思われる。
その間、栗田氏が歴史にあらわれるのは応安三年(1370)十月、信濃守護上杉朝房が栗田城を攻めたことで、それが栗田城のみえる初めである。朝房は鎌倉御所足利氏満を補佐して関東管領も兼帯し、下命に従わない栗田氏を攻めたのであった。栗田氏は上杉軍を迎え撃って栗田城の西木戸口あたりで合戦となり、よく上杉軍の攻撃を退けたようだ。
応永六年(1399)、小笠原長秀が信濃守護職に任じられたが、その横柄な態度が国人領主たちの反感をかい、
村上氏をはじめ大文字一揆ら北・東・中信地方の国人らが結集して守護長秀に兵を挙げた。いわゆる大塔合戦で、
守護方は散々な敗北を喫して京に逃げ帰った長秀は信濃守護職を解任されてしまった。栗田氏の本拠である栗田城は戦場となった
大塔のすぐ近くであり、応永年間の大文字一揆注進状にも栗田沙弥覚秀がみえることから一揆方に与したものと思われる。
長秀ののち管領斯波氏が信濃守護に任じられ、さらに幕府直轄領となったが、国人らの反抗は続いた。やがて、
応永二十三年に起こった上杉禅秀の乱を契機として小笠原政康が台頭、政康は幕府代官細川茲忠を援けて
国人の討伐に活躍、応永三十二年に信濃守護職に任じられた。そして、永享十年(1438)に永享の乱が起こると、
政康は信濃国人衆を引具して箱根の峠を越えて鎌倉に進攻した。このとき、政康に従った信濃国人たちの名が
『結城陣番帳』から知られるが、そこには信濃国人のほとんどが参陣しており九番に「栗田殿代井上孫四郎殿」とあり
栗田氏も小笠原氏の麾下に属していた。
その後、『諏訪御符礼之古書』の文明三年(1471)の「御射山明年御頭足」に栗田萱俊の名がみえ、ついで文明九年の「五月会明年御頭足」に栗田永寿の名がある。そして、同年、境を接する漆田氏領に侵攻、漆田秀豊を降して一騎城を手中におさめている。当時は、応仁の乱の最中であり、乱の余波は全国に及んでおり、栗田氏も北信の国人領主の一人として勢力の拡大に努めていたことが知られるのである。
栗田氏系図によれば、応仁の乱のころの当主は明応五年(1496)に病没したという寛慶とその子寛高の時代にあたる。
系図の傍注によれば寛高は、善光寺東之門に寿福山寛慶寺を建立して父の菩提を弔ったという。もっとも寛慶寺は
栗田寛覚により創建された栗田氏の菩提寺である栗田寺が前身で、明応五年に寛高が父寛慶の遺命を受けて
東之門に移築、天正十五(1587)に寺号を栗田寺から寛慶寺に改めたという説もある。いずれにしろ、寛高・寛安父子の
あたりから栗田氏の動向が知られるようになる。すでに世の中は下剋上が横行する戦国時代であり、
栗田氏ら北信の国人たちも平穏ではいられなかった。
乱世を生きる
永正四年(1507)、越後守護上杉房能が守護代長尾為景に討たれ、為景の擁する定実が守護に任じられた。しかし、
房能の兄で関東管領上杉顕定が越後に進攻、敗れた為景・定実らは越中から佐渡へと奔った。その後、勢力を盛り返した
為景の反撃によって顕定は敗退、関東に逃げ帰る途中の長森原で討死を遂げた。ついで、為景と定実が不和となって
対立するようになると、その影響が北信にも及んできた。北信の有力者高梨政盛は為景に与したため、
政盛と対抗する島津貞忠は井上・海野氏らとともに定実に味方した。栗田氏も島津氏に加担して越後に侵攻したが、
越後の内乱が為景の勝利に帰すと島津氏ら北信の国人らは為景に和を求め、北信は為景を後ろ盾とする高梨氏が勢力を
振るうようになった。そして、信濃は守護職を相伝した小笠原氏を中心としながら、北信に村上氏・高梨氏、中信に
諏訪氏、そして南信に木曽氏らの群雄が割拠する状態を呈するのである。
やがて、十六世紀の半ばになると甲斐の武田晴信(信玄)が信濃への侵攻を開始するようになり、諏訪氏が滅ぼされ、
小笠原氏が没落、そして村上義清、高梨政頼らが武田氏の攻勢にさらされるようになった。戦国時代、
栗田氏は宗家にあたる村上氏に属して勢力を保持、武田氏の北信侵攻にも村上氏の麾下として抗戦した。
村上氏らは越後の長尾景虎に援助を求めて信玄に抵抗を続けたが、ついに天文二十二年(1553)、義清らは景虎を頼って
越後に落去するにいたった。栗田寛安も義清とともに越後に奔ったが、のちに武田方の調略に応じて信濃に復帰した。
戦国期、戸隠神社は越後方の勢力下にあったが、信玄は越後攻めの軍道として戸隠往来の道筋を押さえるため、
戸隠神社別当職を相伝する栗田氏に調略の手を伸ばしたのである。また、戸隠山に祀られる九頭龍神は古来より
雨乞いに霊験あるとされて、北信の村々では日照り続くと九頭龍池(種池)を産土神に供えて雨乞い祈願したことが
知られる。とりわけ、耕作地帯の広がる川中島地方では戸隠信仰が強かった。このような戸隠神社を支配下に
おくことは信越に通じる軍道確保、川中島地方の人心掌握といううえから信玄、謙信ともに必要不可欠なことであった。
弘治元年(1555)、長尾景虎と武田信玄の間で川中島の合戦が行なわれると、寛安は武田方に属して旭山城を守り、
越後勢の川中島進出を牽制した。このとき、信玄は旭山城の栗田氏に兵三千、弓八百張、鉄炮三百挺を送ったが、
これは鉄砲が戦いに使用された早い段階の事例となった。
寛安は三千の兵を指揮して旭山城を守り通し、甲越の対陣は二百日に及んだが、
今川義元の仲裁を受けて長尾・武田両軍は兵を引き上げた。
このとき信玄は善光寺本尊を小県郡に移し、さらに甲府に移して甲府善光寺を建立したため寛安も甲斐に移った。
旭山城は和議の条件によって廃城となり、栗田氏代々の居城であった栗田城も破却されてしまった。
その後、寛安のあとは鶴寿(寛久)が継ぎ、永禄十一年(1568)、信玄から甲府善光寺の支配を命じられ、
さらに水内郡の旧領も安堵され水内北西部と善光寺周辺部一帯の支配権を確立した。
・右図:
善光寺界隈城址・古跡分布図
(Yahooマップをベースに作成)
戦国時代の終焉
信玄の死後、あとを継いだ勝頼は天正二年(1574)に遠江の高天神城を攻撃、城主小笠原長忠(氏助?)は
織田・徳川の援軍を期待したが、徳川単独で援軍を出す力はなく、長忠は降伏して高天神城を開城した。翌年、
勝頼は長篠の戦いに敗れ、武田軍は大きなダメージを受けた。勝頼は高天神城の拡張を行って城域を拡大・整備し、
今川氏の旧臣岡部元信(真幸)を城将に任じた。天正七年、栗田刑部=鶴寿は高天神城の守将の一人に任じられ遠江に
出向した。
天正八年、徳川家康は付城を設けて高天神城を攻撃、元信は激しく抗戦したため家康は兵糧攻めに転じた。
勝頼は援軍を送ろうとしたがままならない状況で、ついに天正九年岡部元信、栗田刑部ら城兵は打って出てことごとく
戦死して高天神城は落城した。高天神城を救援できなかった勝頼は声望を落とし、武田氏は滅亡への傾斜を深めることに
なった。高天神城攻防のエピソードに家康の陣所に幸若舞の名手与三太夫がいることを知った栗田刑部が、
小姓の時田鶴千代を使者として幸若舞いを所望した。これに応えて家康は、与三太夫に源義経の最期を語る謡曲
「高館」を舞うことを命じたことが伝えられている。
家督は子の永寿が継いだが幼少であったため弟の寛秀(永寿=国時)が後見した。天正十年、武田氏が滅亡すると
甲斐は徳川家康が支配するところとなった。甲斐善光寺堂主である永寿の立場は危うかったが、家臣大須賀一徳斎(胤清)
の奔走が功を奏して家康から従前通りの安堵を受けた。天正十八年、家康が関東に移封されたのちも、
羽柴秀勝・加藤光泰・浅野幸長らから甲斐善光寺の支配を認められた。その間、中水内郡栗田一帯を支配していたこもあって
越後の上杉景勝の命を受けて小県郡伊勢崎城の普請に従事、天正十九年には九戸一揆討伐に従軍している。そして、
慶長二年(1597)、甲斐善光寺が京都に移されることになり、善光寺堂主の役を免じられた栗田永寿は信濃に還住した。
翌慶長三年、上杉景勝は豊臣秀吉の命で越後から会津に移封となり、栗田永寿もこれに従って
て信夫郡大森城八千石を与えられた。ほどなく、豊臣秀吉が病没、豊臣政権は徳川家康と石田三成の対立で
動揺するようになり、慶長五年、徳川家康が起こした上杉景勝討伐の陣が引き金となって関が原の合戦が起こった。
このとき、栗田国時*は藤田信吉とともに非戦を唱えたため直江兼続と対立、家康に内通じて会津から出奔したが、
藤その途中にある信夫郡伏拝の国境で討手に攻められて討死した。永寿の遺児は家臣に助けられて、慶長八年に善光寺に帰り寛喜と名乗ったという。栗田一族は寛喜を
善光寺別当にしようとしたがならず、寛喜は善光寺御堂のあとに屋敷を構え、寛慶寺の再興をはかったと伝えられる。
*
藤田信吉とともに家康に通じた栗田氏は寛安の子永寿を後見した国時とするものが多いが、
水内郡誌では寛安の子永寿となっている。戦国末期の栗田氏は鶴寿・永寿の名が文書に散見し、
寛安を鶴寿、その子が永寿と思われるが、寛安の弟で甥永寿を後見した寛久(国時)を永寿
とするものもあって錯綜がみられる。
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補遺
「web 週間長野」に栗田氏の面白い後日談があった。 「戸隠の栗田さんは流れ流れて水戸藩に奉職し、
光圀公=黄門さん=の『大日本史』を執筆した人もいるとか。ご子孫も各地にいるらしいのですが、ある方は
旧通産省の高級官僚になりました。毎年、ご先祖の墓参り(戸隠二条地籍)に来られるのですが、お前たちは領民、
家来だったと大威張りなので、みんな辟易していました。退官した後は、だいぶ謙虚になりましたが...」というものだ。
江戸時代を経て明治を迎えても領主気分が続いているのは滑稽でもあるが、家の歴史というものの
継続性を感じさせる話ではある。
・2011年3月14日
【参考資料:「上水内郡誌:歴史編」・長野郷土史研究会機関紙「長野:185号」・長野県の歴史・
web 週間長野 など】
■参考略系図
・「尊卑文脈」所収の村上系図をベースに、「上水内郡誌」所収の水戸旧藩士栗田系図などを併せて作成。
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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日本には八百万の神々がましまし、数多の神社がある。
それぞれの神社には神紋があり、神を祭祀してきた神職家がある。
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