加藤氏(光泰家)
蛇の目/上り藤
(藤原氏利仁流) |
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加藤氏は藤原氏の一族といい、加賀の藤原からきたものといわれる。『尊卑分脈』によれば、源頼義の郎党藤原景道が加賀介であったことから「加藤」を称するようになったとみえている。景道は藤原氏利仁流で、前九年の役で「東奥七騎」とうたわれた兵(ツワモノ)であった。景道の曾孫にあたるという加藤次景廉は、源頼朝の旗揚げに参加、鎌倉幕府が成立すると鎌倉御家人となった。ところが、景廉は梶原景時の謀叛事件に連座して失脚、一族離散して、一部が三河へ流れてきた。それが、三河加藤氏の始めということになっている。
さて、加藤光泰の加藤氏は修諸修諸修諸、『寛政重家譜』によれば藤原利仁の曾孫重光二十代の後裔景秀の嫡男景泰は斎藤氏に仕えて、美濃国多芸郡(養老郡)橋爪荘で七十貫の所領を持っていた。景泰の嫡男が光泰で、斎藤氏が没落したあと羽柴秀吉に仕えた。一方、『美濃国諸家系譜』に収められた「加藤氏系図」では、加藤次景廉の孫で美濃国恵那郡岩村に住した景村の後裔になっている。景村の子景光は遠山加藤太を称したとあるが、遠山氏系図は錯綜したものが多く、その真偽のほどは判然としない。いずれにしろ、光泰の一代で大名に出世したことだけは紛れもない史実である。
光泰の出世
父の死後、家督を継いだ加藤光泰は斎藤龍興に仕えたが、永禄十年(1567)、稲葉山城は信長によって落とされ斎藤氏は没落した。主を失った光泰は美濃衆の一人として、織田信長の部将羽柴(豊臣)秀吉に仕えるようになった。
元亀二年(1571)、近江国横山城において浅井長政勢と対戦、左足に重傷を負い、秀吉から七百石の知行を与えられた。併せて与力十余人を預けられたというから、光泰は秀吉に仕えたとき美濃の所領は失っていたのであろうか。以後、秀吉に仕えて順調に出世階段を昇っていくことになる。そして、天正八年(1580)、播磨三木城攻めに活躍、播磨に五千石の地を与えられた。
天正十年六月、明智光秀の謀反によって織田信長が本能寺で討死した。山崎の合戦で光秀を破った秀吉から、光秀の旧城の一つである周山城と一万七千石を賜り万石取りの武将に出世した。ついで、近江国海津城、大溝城へと転じ加増を受けて二万石、さらに尾張国犬山城の在番を命じられた。信長死後、山崎の合戦を制した秀吉は、信長後継をめぐる候補者争いを自らが推す三法師(のち秀信)で決着をつけると天下人への道を驀進しはじめた。
天正十一年、ライバルの柴田勝家を賤ケ岳の合戦に破り、翌年には織田信雄と徳川家康の連合軍と小牧・長久手で対戦、翌十三年は越中に佐々成政を攻め屈服させた。その間、光泰は犬山城で徳川・織田連合軍と対峙するなど最前線に身をおき、美濃大垣城を与えられ四万石を領するようになった。併せて秀吉の蔵入地二万石を預けられたが、秀吉の勘気を蒙るところがあり、豊臣秀長に預けられた。秀長のもとでは一万石を与えられ、天正十五年には宇陀郡秋山城において一万六千石を与えられた。
同年、秀吉の赦しをえて従五位下遠江守に任じ、近江国佐和山城と二万石を賜った。天正十八年小田原攻めのときは駿府城在番の任をつとめ、北条氏没落後、甲斐国甲府で二十四万石を与えられ大大名となった。ここに至るまでの光泰の経歴をみると武将としての派手な活躍は少ないが、文武ともに水準以上の能力を発揮し、生え抜きの武将が少ない秀吉にとって貴重な人材だったのではなかろうか。
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写真:光泰がはじめて城持ちになった周山城祉
加藤氏の浮沈
新しい所領となった甲斐国は、関八州に封じられた徳川家康と境を接するところであり、秀吉の光泰に対する期待が大きかったことがうかがわれる。光泰もまた領内の検地を進め、甲府城を築くなどして領国経営の安泰につとめている。
文禄元年(1592)、文禄の役が起こると光泰も出陣、朝鮮に渡海して活躍した。翌年、日本に帰ることになった光泰は、宮部長房の陣での宴に出席したのち、にわかに発病して西生浦の陣において帰らぬ人となった。一説に、石田三成の意を受けた宮部長房による毒殺ともいうが、その真相は闇の中である。光泰の死によって甲府二十四万石は収公され、家督を継いだ貞泰は美濃国黒野城四万石に転封となった。この六分の一という減封は、光泰に過失があったわけでもなく、貞泰が若かったということを差し引いても奇異な感じを受ける。ここにも、三成による光泰暗殺説が生まれた一因があるようだ。
慶長三年、秀吉が病死すると徳川家康と石田三成の対立が顕在化、政情は一触即発の状態となった。そして、慶長六年、関が原の合戦が勃発した。三成の催促を受けた貞泰は竹中重門、稲葉貞通らと犬山城に入ったが、三成に意趣を含む貞泰は密かに徳川家康に通じ弟光直を質に送っていた。そして、井伊直政に属して大垣城攻めに参加、関が原の合戦後は近江水口城攻めに功があった。戦後、伯耆国米子城を賜り、二万石を加増されて六万石を領した。
大坂両度の陣にも出陣して功があり、元和三年(1617)、伯耆国米子から伊予国大洲六万に移された。それまで大津と呼ばれていたものを大洲と替えたのは、ほかならぬ貞泰のときで、以後、加藤氏は代々伊予国大洲六万の藩主として続き、明治維新を迎えた。
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写真:加藤光泰画像
(東京大学史料編纂所データベースから)
【参考資料:寛政重修諸家譜・戦国大名緒家譜 など】
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