安積氏
竪二つ引中に三つ巴*
(村上源氏赤松氏流?)
*『播州英城日記』の内「武具印」に
「安積 竪二つ引中に三つ巴」と。
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安積氏は、播磨国宍粟郡安積保の下司公文職をもつ国御家人であった。元弘の乱に際して、盛氏は御家人として六波羅の召しに応じて出陣していたらしいが、最終段階で護良親王の令旨を得、足利尊氏に属して本領を安堵された。
ところが同年十一月、播磨大介新田義貞は三方西荘を大徳寺に寄進した。安積氏の本領である三方西郷公文職と大徳寺領になった三方西荘との関係は不明であるが、盛氏が建武新政に叛した足利尊氏に早い段階から従ったのはこのことと関係があったのかも知れない。
貞和四年(1348)六月、院宣によって、足利直冬に属して紀伊の南軍征伐のために出陣したことが知られている。
盛氏の子盛兼は、赤旗一揆に属して赤松氏とは別個の独自な動きを示したが、播磨の守護となった赤松勢力の伸長に伴いその被官となった。観応の擾乱では足利直義の命令で播磨に下り、石塔義房に属して光明寺滝野城に拠ったが、足利尊氏と直義の和議が成立すると尊氏方となり近江の鏡宿に尊氏方として加わり、また文和二年(1353)十月には赤松貞範に属して美作国英多城攻撃に参加している。
そのときの軍忠状には赤松則祐が証判を加えており、赤松氏に対して心服せず、反復を繰り返していた安積氏が次第に被官化されていく過程を知ることができる。
嘉吉元年の「嘉吉の乱」では安積監物行秀(一説には時治)が将軍足利義教の首を討った。行秀は赤松満祐の家臣として勇者のほまれが高く。義教殺害後、播磨下国の行列ではその首を槍先にあげたことでも知られる。城山城で自刃した満祐の介錯をしたのち、城内に放火して自殺した。しかし、将軍暗殺の下手人と目され、火中より探し出された満祐・行秀主従の首は京都四条河原に移され、旧赤松邸跡で晒し首にされた。
嘉吉の乱後、安積氏の勢力は衰退を余儀なくされた。戦国末期、羽柴秀吉から宍粟郡河東本知分百石の知行を安堵されたが、かつての強勢は回復できなかった。
■安積氏の系図
・『日本の中世城館調査報告集成-15』の安積城の項には、安積盛氏─盛好─盛正─盛建─盛矩─胤阿─盛兼─盛行─盛勝─左近将監盛昌─盛長と続き、天正八年(1580)、豊臣秀吉の攻撃によって宇野氏が守る篠の丸城、長水城が落城すると、安積盛長の安積城も落城し盛長は討死したという。中世北播磨の歴史を知る史料として、『安積文書(安積弘允氏蔵)』も伝えられている。
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・安積氏の詳細系図をご存じの方、ご教示ください。
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