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阿曽沼氏
●横木瓜
●藤原氏秀郷流足利氏流
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阿曽沼氏は、藤原氏秀郷流足利氏の分かれである。すなわち、足利有綱の二男広綱が下野国安蘇郡阿曽沼郷に居住して、阿曽沼氏を称したのが始まりである。
広綱の子親綱は「承久の乱(1221)」の功で、安芸国世能庄の地頭職に補されて安芸との関係が生じた。とはいえ、鎌倉時代は被官野村氏を代官として派遣して、所領支配を行っていた。阿曽沼氏が安芸に下向した時期は詳らかではないが、元冦のときに西下したものと思われる。そういう意味では、西遷御家人の一家といえよう。
安芸に下った阿曽沼氏は、蓮華寺山西南にある尾根の先端に鳥籠山城を築き本拠とした。以後、そこを本拠として、安芸国有数の国人領主に成長するのである。
阿曽沼氏の活躍
阿曽沼氏の安芸における活動が知られるようになるのは、南北朝時代である。南北朝期の安芸守護は武田信武で、武田氏ははやくから足利尊氏に属して活動していた。安芸国の諸将は武田信武のもとに結集し、建武二年(1335)、信武が尊氏に応じて挙兵したとき、その陣中に逸見・周防・吉川・毛利・熊谷氏らの名がみえる。阿曽沼氏も足利氏=守護方に与し、建武三年、尊氏の命を受けて安芸・伯耆で活動したことが知られる。
尊氏と弟の直義が争った「観応の擾乱」に際して、阿曽沼下野守は直義から高師直・師泰を討つよう働きかけを受けたが、下野守は守護武田氏らとともに尊氏方として活躍した。以後、南北朝時代を通じて幕府方に属し、応永の安芸国人一揆のときも幕府=守護方に味方したようだ。
その後、次第に大内氏との関係を深め、応仁元年(1467)に起った応仁の乱では、大内氏に従って西軍に属した。応仁の乱は、最初は細川勝元が率いる東軍が優勢であったが、大内政弘が山名持豊(宗全)の率いる西軍に加担したことで、両軍の勢力が拮抗するようになった。十一年にわたって続いた応仁の乱は、京都を焦土と化し、日本全国を戦国時代へと押し流した。阿曽沼氏は厳島神主家、平賀、天野、竹原小早川の諸氏とともに政弘に属し、一方の東軍には武田、毛利、吉川、沼田小早川氏らが参加し、安芸国内で両派の小競り合いが繰り返された。
応仁の乱後の延徳四年(1492)、阿曽沼成郷は将軍義尚から畠山基家を討つべく出陣をうながされている。その一方で、開田荘代官職を得て広島湾頭に地歩を占め、水軍育成を可能とした。このように阿曽沼氏が着実に勢力を拡大していたころ、幕府内部では政治抗争が止むことなく繰り返されていた。明応二年(1493)、管領細川政元がクーデターを起して将軍義材を追放した。京都を追われた義材は越中の神保氏に庇護され、ついで周防の大内義興を頼ってきた。
永正四年(1508)、細川氏に内訌が起り、管領政元が家臣に殺害された。将軍義材を庇護していた義興は、政元の死を好機とし、義材を擁して上洛の軍を起こした。この陣に、安芸・備後の諸将が馳せ参じ、阿曽沼弘定も随従して上洛したようだ。かくして、京に入った大内義興は細川高国と結んで、翌五年七月に義材を将軍職に復職させた。以後、同十五年に山口に帰るまでの十年間にわたって将軍義材を補佐し、管領代と山城守護を兼ねて在京した。
その間の永正九年(1512)、弘定は天野興次・天野元貞・毛利興元・平賀弘保・小早川弘平・阿曽沼弘秀・高橋元光・野間興勝・吉川元経ら近隣の国人領主と一揆契状を結んで、互いの権益と立場の維持を図っている。
安芸の有力国人に成長
出雲の尼子経久も大内義興に従って上洛したが、同十三年に帰国すると、大内義興の留守をいいことに中国各地への武力進出を企てたのである。大永三年(1523)には、安芸国に進出し、大内氏の拠点鏡山城を攻撃した。このとき、阿曽沼氏は毛利氏とともに尼子勢の先陣をつとめ、その功によって西条の東、寺家、三方、田口などの地を安堵された。
国元の情勢に危機感をもった義興は帰国し、ただちに安芸国に進攻した。この情勢の変化に際して毛利元就は大内方に転じたが、阿曽沼氏は武田氏とともに尼子方に止まった。その結果、大永七年、大内・毛利勢によって本拠鳥籠山城を攻め落され、さらに、新城も攻撃にさらされた。ついに阿曽沼氏は大内方に降服、重臣野村氏が責任をとって切腹した。
その後、中国地方は出雲の尼子氏と周防の大内氏との覇権争いが繰り返され、阿曽沼氏、毛利氏ら安芸の国人領主は、尼子と大内の抗争に翻弄された。そのような天文二十年(1551)、陶晴賢の謀叛によって大内義隆が倒された。阿曽沼氏は晴賢方にあったようだが、二十二年四月ころに陶方を離れ、翌二十三年、毛利元就が陶氏と断交すると、毛利氏に属するようになった。同年、元就が晴賢打倒の兵を挙げると、阿曽沼広秀は毛利軍に加わり、五月、周防の小瀬、御庄で陶軍と戦い、ついで六月には安芸の明石口、久島・白沙に転戦し、元就から賞されている。
弘治元年(1555)十一月、「厳島合戦」が行われ、数に優る陶軍は毛利元就の作戦によって潰滅的敗北を喫し、晴賢は討死した。この厳島合戦に阿曽沼広秀も参加し、陶方の勇将弘中隆兼父子を討ち取る功をあげている。その後、元就の防長侵攻戦に従軍し、須々浜合戦、町野口合戦に活躍をみせている。弘治三年四月、広秀は福原貞俊、志道元保らとともに長門国且山城を攻めて内藤隆世を討ち、ついで大内義長が籠る長福寺を包囲し義長を自害せしめた。
このようにして、阿曽沼氏は毛利氏の麾下に属したが、元亀元年(1570)の出雲遠征には参陣を遅らせて元就から催促をうけている。また、毛利氏から課せられた公事について不満を表明するなど、なお国人領主としての自律性を維持していた。
近世へ
天正年代(1573〜91)のはじめ、織田信長の天下統一事業が進められ、戦国時代も次第に収束していきつつあった。ところが、天正十年六月に織田信長は明智光秀の謀叛によって本能寺の変で斃れ、天下統一事業は部将羽柴(豊臣)秀吉が継承した。その間、毛利氏は宿敵尼子氏を滅ぼし、中国地方の覇者として織田勢と対峙したが、信長死後は豊臣秀吉に属するようになった。
天正十四から十五年、秀吉の九州征伐が行われ、阿曽沼氏は毛利軍の一員として出陣した。その後、豊臣秀吉の天下統一がなると、秀吉は朝鮮出兵を企図し、文禄・慶長の役が起った。毛利氏も朝鮮に渡海し、広秀の嫡子元秀は慶長二年(1597)十二月、朝鮮において戦死した。ところで、元秀は文禄年間、安芸・出雲・周防・石見において四千八百十三石余を領し、長女は毛利元政、次女は毛利家譜代家臣の桂元信に嫁いでいる。かくして、激動の時代を生きた広秀は、慶長二年十一月に死去した。
元秀の戦死後は元郷が家督を継ぎ、慶長五年(1600)に起った関ヶ原の合戦では伊勢津城攻めで軍功をあげている。叔父の就郷も毛利輝元の麾下で活躍したが、関ヶ原の合戦は徳川家康の勝利に終わり、戦後、毛利氏は防長二国に逼塞することになった。
阿曽沼氏も先祖代々住み慣れた安芸国を去って毛利氏とともに萩に遷り、子孫は、萩藩寄組に属して近世に至った。・2005年07月07日
【参考資料:遠野市史/広島県史 ほか】
■参考略系図
・安芸阿曽沼氏の系図は、『萩藩諸家系譜』に収められたものから作成した。遠野阿曽沼氏の歴代と比べて代数が四〜五代少ないようで、戦国時代の弘秀のあたりにおいて混乱があるようだ。
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