越後長尾(上杉)氏
長尾為景は、五十嵐・大須賀氏らのの反乱を鎮定し越後 国内を掌握した。永正四年房能の養嗣子定実を擁立し、房能排斥のクーデターを起こした。大永七年、将軍義晴から大名の待遇を与えられ、天文四年には後奈良天皇から御旗を、翌五年には内乱鎮定の綸旨を賜っている。為景は家督を嫡子晴景に譲り、天文五年十二月に六十六歳で没した。
晴景は病弱で武将としての器量もなく、豪族たちを統率する力もなかった。越後国内の豪族たちは勝手な振る舞いの限りを尽くした。天文十七年、守護定実の調停で晴景は家督を弟の景虎に譲り、天文二十二年四十五歳で死去した。
景虎は越後国を統一し、上杉憲政を擁して関東へ出陣している。永禄四年憲政から上杉の名跡を譲られ、関東管領職に就任して憲政の一字もらって政虎と改め、以後上杉氏を称した。その頃甲斐の武田信玄が信州に侵攻を繰り返し、信濃の大名たちは、次々と信玄に敗れ、政虎(謙信)を頼ってきたのである。そして戦国の二代英雄、謙信と信玄が激突することとなる。
謙信が武田信玄と戦った川中島の戦は、五回を数えたが、総合的にみれば謙信の負けのようだ。
それはさておき川中島の戦いが、数多ある戦国合戦の白眉であったことは、誰もが認めるところだろう。
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駿河今川氏
氏親は領内に検地を行い、また分国法「今川仮名目録」を制定し、戦国大名への脱皮を遂げたのである。氏親は、部将の福島正成をもって、甲斐国を攻めさせた。当時、甲斐国は信虎が統一戦に明け暮れていた。しかし、東海の雄今川氏にかぬうほどの力は蓄えていなかった。今川軍は甲斐国を存分に荒し回り、信虎は追い詰められた。万事窮して、信虎は決戦を挑み、敵の油断を誘い出し、勝利を得たのであった。
氏親は大永六年に没し、氏輝があとを継いだ。しかし、氏輝も天文五年二十四歳の若さで死んでしまったため、家督争いが持ち上がった。氏輝にはまだ子がなく、末弟の氏豊も同じころ死んでおり、僧籍にあったもう二人の弟が争うことになった。
家督争いに勝利した承芳が還俗じて義元となり、今川氏における全盛時代を現出したのである。義元は、三河・尾張にまで領国を広げていった。しかし、永禄三年五月、尾張の桶狭間で織田信長の奇襲を受け、討死してしまった。義元の死後、子の氏真が継いだが、家を支えることができず戦国大名としての今川氏は滅亡した。
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相模後北条氏
三代氏康は、領内に検地を行い、また税制を改革するなど民政面に手腕を発揮して戦国大名としての基礎を固めるとともに、軍事面でも天文十五年の河越夜戦で宿敵扇谷上杉朝定を敗死させ、山内上杉憲政を越後に追い、関東から両上杉の勢力を一掃している。後北条氏が武蔵を確保し、さらに関八州の戦国大名へと飛躍していくことができたのは、この氏康の功績であった。
氏康は、嫡男氏政に家督を継がせ、氏照は大石氏の跡を継がせて滝山・八王子城主となし、
氏邦に藤田氏を継がせ北武蔵の押えとして鉢形城に置き、氏規を韮山城主とし、氏忠を佐野氏の後嗣とし、
氏堯を小机城に置いた。また、氏秀あらため景虎は越後上杉氏のもとに養子としていった。さらに、戦略上の
政略結婚が顕著にみられ、娘早川殿は今川義元の嫡男氏真のところに嫁入っている。また、
氏政は武田信玄の娘と結婚しているのである。
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尾張織田氏
永禄十一年、足利義昭を岐阜に迎え、義昭とともに上洛、入京一番のりをはたし、たちまちに畿内中枢部を制圧して、義昭を将軍とした。義昭はこれで有頂天になったが、信長にとっては、幕府回復は、天下制覇のための一手段、一階梯であったにすぎない。したがって、義昭との蜜月はあっけなく終わり、義昭は将軍の権威をかさに、反信長軍を呼びかけはじめる。
当時、信長が恐れたのは北国の上杉謙信と甲斐の武田信玄であった。信長は誼を結ぶため、両者に贈物を何度か届けている。あるとき、信玄が信長から届けられた贈り物を入れた漆器に目を止めて、家臣にその漆器を削らせたことがあった。その漆器は何度も漆を重ねた極上品であった。贈り物はともかく、その入れ物にまでこの心配りぶりを見て、信玄は信長の誼を結ぶ心を信じたという。役者としては信長の方が一枚上手であったようだ。というよりも、信長に比べて信玄は田舎貴族であったというべきか。
その後、両者の間は決裂して信玄が上洛軍を起こすと、信長は家康のもとに家臣を援軍として送り、その西上を阻止しようとしたが、三方ケ原で徳川軍が完敗。窮したところに、信玄病死の報が入った。まさに、信長強運の勝利であった。
天正に入ってからは、浅井・朝倉、三好義継を滅ぼす。ついでさんざん苦しめられた伊勢長島や越前の
一向一揆を徹底的に弾圧。さらに天正三年、武田勝頼を三河長篠の戦いで一蹴し、大坂本願寺とも、
一旦講和が成立する。こうして小康を得た信長は安土城を築城して、家督も信忠に譲り、安土を本拠に
織田家の信長からいわば天下の信長に脱皮する。
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三河徳川氏
松平氏が西三河の平定をほぼ終えるのは五代長親のころで、その子信忠の時代に一時後退をみせるが、清康に至って、戦国大名松平氏としての最盛期を迎えた。
戦国乱世たけなわの天文十一年(1542)十二月二十六日、三河岡崎城主松平広忠の長男として家康は誕生した。このころ、織田信長は14歳、豊臣秀吉は12歳であった。奇しくも東海地方に生まれ合わせたこの三人の英雄が、やがて日本の戦乱を終焉させてゆく。そして、その仕上げをなしたのが徳川家康、その人であった。
元亀三年12月、武田信玄が上洛の軍を起こし、家康の拠る浜松城を無視して西進しようとした。この時、家康は家臣の止めるのも聞かず敢然と打って出て、三方ケ原で武田軍に挑んだ。結果は、家康の完敗であった。この時、浜松城に逃げ帰った家康の鞍壷には、脱糞のあとがあったという。それほどのすさまじい敗戦であった。
武田氏滅亡後、家康が武田遺臣を多く召し抱えた理由には、この合戦での武田武士の戦いぶりも大きく働いたのではないだろうか。
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