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島津一族
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川上氏

 島津貞久の子川上大夫判官頼久に始まる。頼久は建武三年(1335)、薩摩の軍勢を率いて新田義貞の拠る越前敦賀城を攻め、文和元年(1352)に薩摩国加世田別府半分地頭職を与えられている。
 戦国後期、島津義久の家老を務めた忠智の子忠堅は、天正十二年(1586)島津氏と龍造寺氏が戦った沖田畷の合戦において、竜造寺隆信を討ち取った事で名を残している。忠堅は、天正十四年(1586)鷹取攻めで戦死している。

町田氏

 島津氏第二代忠時には八男があった。忠経の三男が忠光で町田氏の祖となり、庶族に阿多氏が出た。忠光の弟俊忠の子久兼から伊集院氏が出ている。
 町田氏は樺山家・新納家と並んで島津氏の三大権門の一家として、島津氏に仕えそれぞれの時代において重要な役割を果たした。江戸時代初期、島津家久のとき町田久幸が、光久の代には町田久則が家老として名を連ねている。

伊集院氏

 薩摩国日置郡伊集院村から出た島津氏の一族。島津忠時の子忠経、その子俊忠は伊集院地頭職を得て、伊集院氏を名乗った。
 戦国期、伊集院忠朗の孫忠棟(幸侃)は島津義久の老臣となり、天正三年(1575)肝付兼道の日向福島・志布志両城を救援した。同十一年、義久は忠棟を肥後に派遣し、八代の守将として有馬氏救援を計画し、また肥後花山に砦を築き、同十三年にほぼ肥後をおさめることに成功した。

新納氏

 島津四代忠宗の子時久が、日向国児湯郡新納院の地頭に補され、新納を称した。のちに著名な忠元は庶流で是久から出ている。新納本家は時久の子実久以来、志布志城に拠って、忠勝の時勢力を増大、亨禄年間、北郷忠相に攻められて敗退したという。
 天正十四年以来、島津氏の豊後大友氏攻撃が始まり、忠元は義弘に従って豊後に入ったが、豊臣秀吉の九州遠征軍の到着により、忠元のみ別れ、肥後八代に駐在、さらに人吉を経て大口に退いた。忠元はあくまで戦いを主張したが、義久に諭されて秀吉に謁した。

北郷氏

 島津氏第四代忠宗には七男があった。家督は長男の貞久が襲いだ。六男が資忠で尾張守を称し北郷氏の祖となった。
 天正十五年四月、豊臣秀吉の九州征伐が起こり、羽柴秀長の大軍が日向に到着した。この合戦に、北郷時久・忠虎父子も一方の将として加わっていた。根白坂の合戦に敗れた義久は、上方軍の手強さを痛感した。そして、木食上人・安国寺等の勧めにより、伊集院忠棟を質として、秀長と講和した。
・参考:戦国史叢書:薩摩島津氏

■島津氏 庶流分出略系図
  
系図



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