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富田氏
丸に違い鷹の羽
(宇多源氏佐々木氏庶流)


 富田氏は宇多源氏佐々木氏庶流といわれている。『寛政重修諸家譜』によれば、佐々木源三秀義の五男隠岐守義清の五代の裔にあたる義泰のとき、出雲国富田荘に居住し、その地名をとって苗字にしたという。
 義泰の子師泰が出雲国富田城を築いたといわれ、その子秀貞のとき、はじめ広田氏といっていたのをあらためて富田氏にしたという。秀貞のころがちょうど南北朝内乱期にあたり、秀貞は貞治六年(1367)、出雲において戦死している。
 戦国期の当主は知信および信高で、知信は一白の名で知られ、秀吉の使者として大名の間を往復して活躍している。普通知信といわれているが信広あるいは長家といった時期もあったようだ。天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いにおいて、織田信雄との間を斡旋した功で、秀吉から名馬星崎を与えられている。文禄四年には伊勢安濃津城主となり、五万石を与えられた。秀吉死後の慶長四年致仕して水西と号し、同年没している。
 子信高も知勝・知治などと呼ばれた時期があった。天正十六年秀吉に仕え、父が安濃美津城主となったとき二万石を分知され、父の隠居後、城主となった。関ヶ原のときは東軍に属し、安濃美津城において分部政寿と合体して同城にがんばったが、西軍の攻撃をうけて支えきれず、ついに開城。剃髪して高野山に入った。のち家康に召し出されて加増されている。
 のちさらに増して、伊予宇和島十二万石の城主となった。しかし、慶長十八年(1613)坂崎直盛との係争がこじれて、根こそぎ失領することとなった。このとき、富高と親交のあった高橋家と、信高の弟佐野信吉も巻添えで、ともに除封となっている。家は信高の次男知休が綱吉について五百俵の旗本となり、その子知郷のとき七千石の大禄となって、大身の徳川旗本となって続いた。



■参考略系図



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