中村氏
橘
(橘一族の代表紋、中村氏の家紋は調査中)
(橘姓) |
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肥前杵島郡長島庄を領して潮見城に割拠した橘姓渋江氏は、橘朝臣公村の時、はじめて姓を渋江と改めた。そして、その弟三人は分家して、それぞれ牛島・中村・中橘を名乗ったことが知られる。
中村氏の初代公光は、文永九年(1272)父橘公義から百町の領地を分与されて分家したが、百町の領地とは石高になおすと二千石くらいに換算される。大領主というものではないが、それなりの所領を支配したことになる。
公光のあとは嫡男の公平が継ぎ、二男の公有は中村弥二郎を号して兄を援けた。元冦の役に際しては公有が兄公平に代わって出陣し、そのときの古文書がいまに伝わっている。ついで、元弘三年(1333)官軍が鎮西探題北条英時を攻めた時、橘氏は官軍に属した。建武二年(1334)、新政府に反旗を翻した足利尊氏の一党が長門国下山に立て籠ったとき、中村弥二郎は官軍に味方してその討伐に馳せ参じた。その後、南北朝の内乱に当たって、橘一族はおおむね足利方に属し、中村弥二郎公有もこれに随従した。やがて、宗家に代わって弥二郎公有が中村氏の主流となっていった。
公有のあとは二男の公世が継ぎ、鎮西探題となった一色道猷が南朝方の白石氏を須古に攻めたとき、宗家橘氏に従って須古攻めに加わった。以後、筑前・筑後・豊前・豊後を転戦し、応安四年(1371)に今川仲秋が九州に下向してくると、公世はこれを安芸に迎え、弟野副祖甲坊定円とともに後藤氏が拠る塚崎城を攻めた。翌五年には少弐頼泰に従って筑後国北郷、筑前国壱岐、肥後国関山などを転戦、中村氏は終始一貫して足利方として活躍した。
勢力拡大
南北朝時代において中村氏の所領は、北方村・大崎村から橋下村におよび、公明の代には長島庄内久地布留村、芦原の平倉村、長池村を領した。公明の子公勝は探題渋川満頼に従って、蜂起を繰り返す九州南朝勢と戦い感状を給わっている。
中村氏の勢力を拡大したのは、公勝のあとを継いだ公廉であった。公廉は小城郡に進出し、肥前守護代の地位にある千葉胤鎮から重用され、やがて千葉氏をも凌ぐようになった。永享九年(1437)公廉は中国の大名大内氏に内通し、主人胤鎮を廃して弟の千葉胤紹を擁立して、小城・佐賀・杵島三郡の惣領につかせると自らは郡代となった。さらに、藤津の大村氏を篭絡して、大村氏領の大草野村北方の地を搾取した。まさに、下剋上を地でいくような公廉の行動であった。
この間の公廉のことを『鎮西要略』では「千葉家の家宰中村左衛門五郎逆心を発し、中国の大内氏と通じて千葉胤鎮を廃し云々」と記されている。やがて千葉氏譜代の家臣らが胤鎮を擁して挙兵、胤紹・公廉に挑んできた。両軍、各地で戦いを繰り返したが、文安二年(1445)敗れた胤紹・公廉は国府に退却し、ついに胤紹・公廉ともに戦死をとげてしまった。
かくして千葉胤鎮が家督に復活し、そのあとは胤鎮の嫡子元胤が千葉氏の惣領となった。そして、この元胤の家宰は中村播磨守であったと『鎮西要略』にみえる。この中村播磨守は、さきに戦死した公廉の子播磨守公頼に比定されている。公廉が死んで十年目のことであり、中村氏の復活としては早すぎるようだが、何か千葉氏と中村氏との間には伺い知れない紐帯があったのかも知れない。
さて、千葉氏は元胤の時代が全盛期で、小城城下はおおいに賑わったと伝えられている。寛正五年(1464)元胤が死去すると、中村越前守(さきの公頼か)は幼主教胤を補弼して、翌六年今川氏を討つため出陣、戦いに利あらず討死を遂げてしまった。千葉氏の家宰中村氏の勢力は、主家を凌ぎ千葉氏は中村氏によって左右されたといても過言ではない状態にあった。その関係は越前守戦死後も続き、公連・公集父子は千葉興常より杵島郡山口・小田の地を附与されている。中村氏は宗家橘渋江氏に属しながら、千葉氏にも属してその重臣として進退していたのであった。
後藤氏の家臣として近世に至る
その後、千葉氏は東西に分裂し、興常は大内氏に通じ、本家千葉氏は少弐氏と近かったため、両家は対立するようになった。中村氏は大内氏に通じて興常に加担したが、千葉両家は抗争のなかで勢力を失墜していった。そのようななかで、橘宗家渋江公勢が勢力を拡大したが、公勢の横死によって、大永七年(1527)、後藤氏の侵攻を受けて長島庄を失い没落の運命となった。
中村氏は有馬氏に属して横辺田砥河村を与えられたが、宗家の没落によって中村氏の勢力も次第に衰え、中村公顕の代に至って武雄後藤氏の家臣となった。かくして、中村氏は自立した勢力になりえず、後藤氏の家臣となったがその知行は五十町草高千石で、当時後藤氏家中最大の所領を有する身であった。しかし、江戸時代に至って、独立を目論んだことから一族散亡の憂き目となり、子孫は医師となって続いたと伝えられている。
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橘屋宗兵衛
■参考略系図
・武雄市史掲載系図から
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