執行氏
三つ盛桔梗
(伴氏兼道流)
・執行氏系図から。「松皮に万字」も用いたという。 |
|
執行氏は肥前国神埼郡に鎮座する櫛田宮の執行別当職に任じ、伴氏流と伝えられている。そもそも執行氏が九州に下ったのは、平安時代初期の永久三年(1115)のことであったという。すなわち、櫛田宮を修築する勅使に伴兼直が本告道景とともに任じられ、肥前国に下向して土着したのが執行氏の始まりという。
櫛田宮は『肥前風土記』にもみえる神社で、伊勢大神宮の大娘豊次比売命を祀っている。その櫛田宮の執行別当職を伴兼直の子孫は代々務め、文永・弘安の元冦に際して、別当伴兼篤は本告氏とともに、神託を奏して異国退散の勅使を迎えた。一方、武力も蓄えた執行氏は、弘安の役には兼篤の弟次郎兼信が出陣して軍功をあげている。以後、櫛田宮の執行別当職をつとめながら、所領を支配し郎党を従え武家としても行動、戦国時代に至ったのである。
戦国時代はじめの大永三年(1523)、執行兼貞が本告頼景とともに櫛田宮の修復に務めている。このように櫛田宮の別当職の任を務めながら武家として少弐氏に属し、享禄三年(1530)の大内氏の侵攻に際して少弐資元を支援して田手畷の戦いの勝利に貢献した。やがて、少弐氏が衰退していくと、勢福寺城主の江上氏の麾下となり、その重臣として勢力を保った。
執行一族、乱世を生きる
少弐氏の衰退とともに龍造寺氏が勢力を拡大、龍造寺隆信は大内氏と結んで主家にあたる少弐氏を滅ぼし、肥前の戦国大名に成長した。隆信の台頭を警戒する豊後の大友氏は、龍造寺氏内部の攪乱を図り、隆信の勢力を削ごうと図った。そして、元亀元年(1570)今山の合戦が起り、江上氏ら東肥前の諸将は大友氏に与して龍造寺隆信の拠る佐賀城を包囲、攻撃した。この危機に対して隆信は、鍋島直茂の策を用いて大友氏の本陣に夜襲をかけ、奇蹟ともえいる大勝利をおさめたのである。
大友氏の大軍を撃退した隆信は、敵対した諸将の討伐を進めていった。元亀二年、鍋島直茂を大将とする龍造寺軍が勢福寺城に押し寄せた。城主の江上武種から迎撃を命じられた執行種兼は、麾下の城原衆を率いて出陣、龍造寺勢の攻撃を退けた。敗れた隆信はふたたび大軍を率いて勢福寺城を攻撃、さすがの武種も和議を申し入れ、隆信の二男又四郎家種を養子に迎えることで龍造寺氏に降った。
以後、執行種兼は家種の重臣として江上氏の陣代に任じ、隆信の勢力拡大の戦に従った。元亀三年、隆信が朝日山の筑紫越後守を攻めたときは、種兼が大将に任じられ朝日山攻略に功があった。かくして、種兼が率いる城原衆は、龍造寺の強力な軍団の一つに数えられ各地を転戦した。そして、天正十二年(1584)、龍造寺氏から島津氏に転じた有馬氏を討伐するため、隆信みずからが出陣した。その陣には江上家種に従って執行種兼も参加したが、沖田畷の戦いにおいて隆信がまさかの戦死を遂げた。乱戦のかなで、種兼も嫡子種直・二男種国・三男信直、執行一族、麾下の城原衆らとともに壮絶な戦死を遂げたのである。その数五十五人であったという。
隆信の戦死により龍造寺氏の勢力は後退し、島津氏の勢力が大きく拡大したが、鍋島直茂がよく龍造寺氏を支えて乱世の舵取りに尽力した。一方、多くの一族を失った執行氏は種忠が継ぎ江上家種に仕えた。
天正十五年、豊臣秀吉の九州征伐が行われ、敗れた島津氏は薩摩・大隅を安堵されるにとどまった。その後の、九州国割で肥前の隣国肥後は佐々成政が国主となった。ところが、成政の検地に反発した肥後国衆が一揆を起したことから、龍造寺氏にも鎮圧のための出陣が命じられた。執行種忠と城原衆もこの陣に加わり、八月、山鹿大田黒城の戦いにおいて種忠は一族、被官とともに戦死した。
戦国時代の終焉
さきの沖田畷の戦いにおける種兼と一族の戦死、山鹿における種忠と一族の戦死は、執行一族の勇敢さんを語るとともに戦国の苛酷さを感じさせるものといえよう。余談ながら、沖田畷の戦いにおける種兼の戦死の様子は『葉隠』にも掲載されている。
こうして、多くの一族を戦乱のなかで失った執行氏は、種兼の弟の兼任の子種正が櫛田神社の神職を継ぎ、子孫は現代に至っているという。ちなみに執行一族の墓は、鬼丸の宝珠院に静かに佇んでいるとのことだ。・2007年04月19日
【参考資料:神埼町史/佐賀の戦国人名志 ほか】
[附記]本情報の作成に関して、櫛田宮禰宜の執行氏から系図、家紋に関する貴重な情報をいただきました。
■参考略系図
・佐賀県立図書館の保管文書を底本に作成。執行氏の祖は伴国道の子兼道となっているが、伴氏系図を見ると、国道には追天門の変で失脚した善男のほかに数人の男子が記されているものの兼道の名は見えない。伴氏の系図は善男の失脚により混乱しており、兼道の実在を確認することは困難といえそうだ。一方、伴氏の流れである肝付氏が「兼」を通字としており、肝付氏との関係の方が現実味があるように思われるが、執行氏との接点は見出せない。
|
|
戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
|
|
人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
|
|
どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
|
|
|