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土佐佐竹氏
五本骨扇に月丸
(清和源氏義光流)


 戦国時代、土佐国高岡郡久礼を領して久礼城に拠った佐竹氏は清和源氏新羅三郎源義光の子孫といわれ、 『堂社御改指出牒』や『土佐州郡志』では常陸国から土佐久礼に来住して本拠を構えたとされる。系図の傍注によれば、承久の乱の時、佐竹左衛門尉秀義が宇治で戦死、子の信濃守経繁が高岡郡久礼村に移り住んだとなっている。それを信じれば、佐竹氏は新補地頭として土佐に入部したことになる。一方で『土佐国蠹簡集』では、大永年間(1521〜27)に久礼へ来住したとしている。
 南北朝期に津野新庄岡本城の北朝方武将であった佐伯(堅田)小三郎経貞の軍忠状を中心とする文書である 『佐伯文書』には、暦応二年(1339)の土佐における南北朝の争いを記したなかに、北朝方武将として佐竹、 佐竹一族彦三郎殿らが見える。さらに延徳三年(1491)、笹場の稲荷大明神、曽我大明神が佐竹氏によって 造立されており、系図にみえる承久の乱後の遠くないころに土佐に移り住んだことは信じてよさそうだ。そして、 南北朝の争乱を経て戦国時代のはじめのころには、久礼から笹場あたりまで勢力を伸張していたことが知られる。
 佐竹氏の領した久礼にある久礼浦は内陸の村々を舟運でむすんだ久礼川や長沢川が流れ込む川港であり、 江戸時代には廻船が出入りする港であった。その久礼浦を見下ろす久礼城に拠った佐竹氏は、海岸にかけて城下町を 形成し、城下を通じる中村街道を押さえて勢力を伸ばしていった。はじめは坪ノ内西方に位置する西山城に拠ったようで、 西山城の発掘調査では南北朝時代から戦国時代はじめにかけての遺物が出土したそうだ。 そして、佐竹義辰・義之父子が戦死したのちに佐竹氏を継いだ義直が久礼城を築いて新たな本拠とした。
 永正四年(1507)、室町幕府を牛耳っていた管領細川政元が家臣によって殺害されるという事件が起こった。これにより、細川氏は 内紛状態となり、同族同士の抗争となった。各地の細川一門は次々と帰京し、土佐守護代の細川氏も上洛したことで、守護領国支配体制は 一気に崩壊して土佐は戦国時代へと突入することになる。そのころの佐竹氏はといえば、『土佐軍記』巻一の「土佐国守護之事」に 佐竹氏は国侍(国人領主)の一人として記されている。 そして、東の安和から南の上ノ加江までを支配下におさめ、土佐の有力公家大名一条氏に属して重臣の一人に数えられていた。

長曽我部氏に属す

 やがて、群雄割拠する土佐の均衡を破る勢力として台頭したのが長曽我部氏で、国親、ついで元親の活躍でにわかに 土佐は統一への機運が兆してきた。土佐最大の勢力である一条氏の攻略を企図した元親は、弟で吉良峰城主の吉良親貞に 命じて久礼城主佐竹義直、蓮池城の城番衆平尾新十郎らに調略の手を伸ばした。義直が長曽我部氏の誘いに応じて一条氏から転じると、 元親は蓮池城を攻略、さらに戸波城までも攻め落とした。そして、元亀二年(1571)には津野氏を降して我が子を 跡継ぎに送り込んだ。その後、元親は佐竹氏の久礼城を拠点にして佐川城、黒岩城、波川城などを攻め、 またたく間に長岡郡を制圧した。かくして、佐竹義直は長曽我部氏に属して勢力を伸張、佐竹氏の全盛期を現出したのであった。
 その後、長曽我部氏は一条氏を降して弟吉良親貞を中村城主とし、天正三年(1575)には土佐一国の平定を完成した。 長曽我部氏に帰属してのち佐竹氏は元親の麾下として活躍、義直の弟で上ノ加江城主義秀の嫡男親直は元親の娘を 嫁に迎え、佐竹氏は長曽我部氏との結びつきを強化した。やがて、土佐一国を乙何時した元親は阿波・讃岐・南伊予へ兵を出し、天正九年(1581)ごろにはほぼ四国の大半を制圧するにいたった。ところが、豊臣秀吉の四国攻めに敗戦したのちは、土佐一国を安堵されて豊臣大名に列した。
 天正十四年(1586)、長宗我部元親は秀吉の命を受けて九州攻めに出陣した。そして、豊後戸次川の河原において島津勢と豊臣軍との間で決戦が行われ、激戦のすえに豊臣軍は潰滅、元親の嫡男信康・十河存保、そして信濃守義直らが討死した。義直の死後、親辰が久礼城主となったが、関が原の合戦ののち長曽我部氏が改易されると土佐を去って泉州堺に移り住んだ。親辰は土佐書家六人の一人に数えられる能書家で、堺に移ったのちは旧臣の中城氏らと書簡を交わして佐竹氏の再興を願ったが果たせぬまま堺で世を去ったという。
 一方、元親の娘を娶った上ノ加江城主親直は、長曽我部氏改易後は浪々の身となったようで、大坂の陣が起こると 旧主で義兄弟にあたる盛親に従って大坂城に入った。そして、慶長二十年(1615)の夏の陣における八尾の戦いで 戦死した。親直とともに大坂城に入っていた子の忠次郎は、落城後、母とともに大坂城を脱出したが伊達家の兵に 捕えられた。命を助けられた忠次郎は伊達家に仕えるようになり、やがて家老柴田氏の養子となって柴田外記朝意と 名乗った。のちに仙台藩を揺るがした仙台騒動では、大老酒井家の屋敷で敵役原田甲斐を斬り捨て、みずからも斬り殺されるという波乱の生涯を生きた。

佐竹氏余話

 佐竹氏が拠った久礼城は昭和五十八年に発掘調査が行なわれ、礎石をもった建物址が発見され、土塁で囲まれた曲輪址、斜面には畝状の竪堀、尾根には堀切、さらに石積の址が確認されるなど残存状態のよさは屈指のものであった。いまも開発の荒波を受けることはなく、草木の生い茂った城址からは久礼の海が眺望できる県下有数の規模をもった城である。佐竹氏もうひとつの城である西山城は、高速道路建設にともなう発掘調査が行なわれ、こちらも曲輪址・土塁・堀切などの遺構が確認され、掘っ立て柱式の建物址も発見されたが、いまはインターチェンジに姿を変えてしまった。
 佐竹義直と主従の墓がある常賢寺跡には石垣・土塁・池跡が残り、禅源寺跡には 佐竹太郎兵衛尉義秀・蔵人佐親直親子の墓が残っている。さらに、久礼八幡宮には佐竹氏の家紋 「五つ骨扇に月の丸」が 刻まれ、社宝の倶利伽羅剣には「佐竹義直(花押)」の文字が陰刻されている。このように、久礼一帯は 佐竹氏ゆかりの史跡、遺物が散在していて、戦乱の時代を生きた戦国領主の足跡が体感できるところなっている。 ・2011年02月10日

【参考資料: 高知県史・中土佐町史・『西南四国歴史文化研究論叢』第6号/第7号・広報なかとさ・土佐諸家系図 など】


■参考略系図
・『土佐国諸氏系図』『土佐諸家系図』に収められた佐竹系図をベースに作成。  
  

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