寒川氏
七本松に三の字
(讃岐公凡直後裔)
『見聞諸家紋』にみえる |
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寒川氏は讃岐公凡直千継の一族で、世々寒川郡の郡司を務め、その後裔が寒川氏を称したと伝えられている。大内・寒川の二郡および小豆島を併せ領し、昼寝・挙山・虎丸等の諸城を構えて東讃岐に威勢を振るった。永正の初めごろ大内氏に属していたが、のちに細川氏に属し大内郡内で一万石を領した。
文明のころの寒川左馬允元家は、文明元年(1469)山田・寒川の二郡の民事で三谷景久と争った。これによって、三谷景久と不和を生じて、同年九月景久は突如兵を起こし来襲してきた。左馬允も兵を起こして三谷氏を攻撃しようとしたが、細川政元の命によって兵をおさめた。しかし、翌年十一月、三谷城を攻め、景久を王佐山に遂い、さらに王佐山をも攻めたが落すことができず兵をおさめた。
永正六年(1509)、大内義興に従って上洛。同九年、伊予の能島氏より瀬戸内の某小島に明人が逃れてきて盛んに貿易を行っているとの情報が寄せられ、左馬允はこれを攻めて貿易の利を得んとした。大内義興からも許しを得た左馬允は香西・安富氏らと図って引田の浦より備後鞆に渡り能島・因島勢らとともに、明人の島に押し寄せた。明人は和を乞い、以後、明人から多大な貿易の利を得るようになったという。
讃岐争乱,十河氏との攻防
永正四年(1507)三好元長らは管領細川政元を謀殺し、澄元および三好之長らの澄元派を京から一掃して、将軍足利義澄に細川家後嗣として澄之を認めさせた。しかし、その直後、澄元を支援した細川高国・尚春によって、澄之・元長らは京で討たれ敗走する。そのため、細川家の家督は澄元が継ぐことになった。
この京での対立は讃岐国内にも波及し、阿波の三好氏は東讃の十河氏や植田一族と図り、香西氏を中心とする讃岐国人衆と対立させ、讃岐への侵攻を始めた。讃岐国内では、細川・三好の後押しを得た勢力と、後盾を持たない香西・寒川氏らの勢力が明確となり、香西氏らは次第に劣勢となっていった。
元政の子元家は、隣国阿波の十河氏としばしば戦った。大永六年(1526)十二月、十河氏が三好氏から援兵三千余人を受けて、元政を攻めてきたとき、地理を知り尽くした元政は、柳津に伏兵を起き十河軍の背後に廻り、前後から挟み討ちにして十河軍に大勝した。とはいえ、十河・植田・神谷・三谷氏らに加え、阿波の三好氏が加勢となれば、寒川氏にとても勝ち目はない。元政は要地を守って十河軍に対峙した。十河軍の讃岐侵攻を聞いた香川山城守・香西豊前守らは、一宮大宮司とはかって、寒川氏を援けるため一宮に大兵を出した。これを知った阿波軍は戦わずして兵を退いていった。
天文元年(1532)、十河一存は長尾名村の池内城の寒川元政の居館を攻めた。このとき、元政の臣、鴨部神内左衛門と同源次の兄弟は精兵五十人を以て十河一存の本陣に突っ込み、神内左衛門のふるう槍が一存の左腕を貫いた。一存はこれに屈せず太刀をもって左衛門を討った。源次も奮戦したが、兄とともに戦死した。一方、一存は槍を切り折り、そのキズに塩をすりこみ、藤のかづらを巻いて帰陣した。
これを見た世人は一存の人間離れした行動に対して、「鬼十河」と呼ぶようになったという。ところで、神内左衛門は寒川氏恩顧の侍で、鴨部の御殿山に城を持っていた。源平藤戸合戦で勇名を馳せた鴨部某の子孫といわれる。左衛門の弟源次は十河城に仕えていたが、寒川氏と合戦になったことで一存が無理に鴨部に帰した。そのとき「戦のときは遠慮なくかかってまいれ」と励ましたという。そして、兄弟とも十河の本陣に斬り込み討死したのである。
勝端城の細川晴元はこの合戦をを聞き、書状を送って寒川・十河氏との和睦をすすめ、両氏はこれに従い争乱は
おさまった。しかし、安富氏はおさまらず、天文九年正月、寒川郡七郷に攻め入り、四月に双方合戦におよび、
寒川氏は敗れて敗兵をまとめ、本城を焼き昼寝城に入り、以後、安富氏との攻防は三年におよんだ。
長宗我部氏の侵攻、そして、寒川氏の没落
元政の子元隣は、虎丸城を居城としていた。元亀三年(1572)、安富筑前守が阿波の篠原入道の女を室とし、筑前守は篠原氏と図って、寒川氏を攻め滅ぼそうとした。そして、三好長治に謀って、寒川氏に大内郡を引き渡すように使いを送った。これに対し寒川氏は、否といえば、攻め滅ぼされることは必定として、止むを得ず、大内郡四郷および挙山・虎丸の二城を付けて屋形へ差し出し、その身は昼寝に退いた。
その後、篠原氏は不慮の変で没落し、安富氏も天正三年(1575)九月、阿波の海部左近の攻撃で落城してしまった。やがて、土佐の長宗我部元親が四国平定の軍を発した。このころ元隣は、三好存保のもとへ行き勝端城に居たが、天正十年八月三好存保の軍に加わり、阿波中冨川において土佐軍と戦い、ついに同所で討死したという。
ところで、寒川氏が最後に拠った昼寝城は、元隣の弟光永が守っていたが、天正三年、阿波の海部氏に攻められて落城した。光永は兄の許にいき、兄が討死したあとは流浪の身となり、月日を過ごしたという。その後、讃岐に生駒一正が入部してくると、光永は一正に召されたが陪臣たることを恥じて仕えず、髪を降ろして浄慶と号し、旧臣に養われ正保二年に没したと伝える。
元隣の子七郎は、天正十四年(1586)十二月、豊臣秀吉の命を受け、九州島津征伐軍に従軍、豊後戸次川で奮戦した。長宗我部信親・十河存保らが戦死するという苦戦であったが、無事に帰郷したと伝える。その後の七郎の動向は詳らかではない。
■昼寝城落城伝説
天正三年九月、昼寝城はわずか二日の戦闘で落城した。
この敗け戦の果て、ひとりの侍が夜陰にまぎれて中津まで落ちのびてきた。 侍はとある民家の戸口に立った。 戸を叩く音に手燭をかかげて出てきた主は、明りに照らし出された落武者の姿に息を呑んだ。 身にまとった甲胄は、身分を示すように立派なものだが、矢傷、刀傷でボロボロにほころび、 ふり乱した頭髪は血糊がこびりつき、恐怖におびえた両眼だけが異様な光りで主を見すえている。 まるで亡霊の姿だった。
一目で昼寝城の落武者であることがわかった。「すまぬが、暫くかくまってはもらえぬか」侍はあえぎながら言った。 ともかく、戸口では怪しまれると思い、主は中に入れた。「傷の手当てをしたいので、暫く部屋を借りたい。それから済まぬが茶漬を一杯所望したい。 朝から何も食していない」侍は甲胄を脱ぎながら頼んだ。
主は家内に命じて茶漬の用意をさせた。「身共は明日の夜にはこの家を出てゆく。済まぬが、それまで家の倉にでもかくまってもらいたい。もし追手がきても他言はせぬように頼む」侍は茶漬をかきこみながら頼んだ。やがて侍が倉に潜むと、主はそっと家を脱け出して村長の家に走った。
「そんな落武者をかくまっていたことが暴れると、この村にどんな仕打ちがあるやも知れぬ。 早う敵方に知らせた方がええぞ」集まってきた村人たちも口ぐちに、そうだ、そうだと賛成した。 知らせを受けてかけつけた追手の軍に向かって侍は、もはやこれまでと応戦したが斬られてしまった。
侍は苦しい息の下から「おのれ、恩知らずの村人め、この中津の村にはこれから先、倉は建てさせぬぞ」恨みの一言を吐いて息絶えた。それから、中津には倉の建つような富んだ家はなくなった。 土地の人は落武者のたたりじゃと恐れ、侍の霊を祀って「残党さんの墓」を建てたといわれている。
………
【伝説は、モアイ平吉さんのHP(現在閉鎖中?)から転載させていただきました。】
■参考略系図
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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