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吉岡氏
●杏 葉
●大友氏流野津氏庶流


 吉岡氏は大友氏初代大友能直の孫野津頼宗を元祖とする大友野津氏の分かれと伝えられ、大分郡高田庄鶴崎千歳城を居城としていた。戦国時代、吉岡長増が加判衆に任じられ、にわかに台頭した。長増は「左衛門・左衛門大夫・長増・越前守・越前入道・宗歓」を名乗り、 臼杵鑑速・吉弘鑑理とともに大友三家老(豊州三老)と称された。また国東郡の方分も担当した。

義鎮治世下の重臣、長増

 享禄五年(1532)、筑前攻略を狙う大内義隆は陶興房を大将とする大軍を九州に派兵した。筑前の小弐氏は大友氏と同盟関係にあり、両家は協力して大内軍にあたった。吉岡長増も高田郡衆を率いて出陣したが、大内家の猛攻により立花城は降伏し、小弐資元は城を捨て落ち延びるという結果になった。そして、天文三年(1534)から同十九年(1550)まで長増の動向は不明となり、十九年の八月に至って加判衆に復帰する。
 吉岡長増が復帰した天文十九年は、「二階崩れの変」により大友義鑑が殺害され、嫡子の義鎮(宗麟)が大友氏の家督となった年でもあった。長増は義鑑政権下において逼塞していたものが、義鎮の配慮により復帰できたと考えられる。そして、同年、肥後の菊池攻めに加わっている。以後、大友義鎮治世下の大友氏最盛期に臼杵鑑速・吉弘鑑理とともに三老として重職にあり、元亀三年(1572)まで加判衆を務めたのである。
 十六世紀の中ごろより、大内氏にとって代わった毛利氏の九州侵略が露骨になり、長増は弘治三年(1557)より毛利氏に対する総指揮官的立場で筑前に在陣、大友全軍の指揮をとった。永禄十一年(1568)には、大友宗麟の意を受けて毛利氏と結んで大友氏に抵抗を続ける竜造寺隆信を攻撃、佐嘉城内に内応を促す矢文を射込み、これに疑心暗鬼を生じた隆信を降伏に追い込んだ。翌十二年、大友義鎮は筑前に在陣する毛利氏の後方攪乱を狙って、大友氏のもとに身を寄せていた大内輝弘(大内義興の甥)に兵を授け、周防に進出させた。
 大内輝弘は山口を奪取し、これに驚いた毛利軍は九州から撤退せざるを得なくなり、これを大友軍が追撃し大戦果をあげ、大友氏は九州から完全に毛利氏の影響を排除することができた。この作戦は吉岡長増が献策したものだといわれている。

島津氏の侵攻に抵抗

 吉岡長増は、天正元年(1573)ごろに死去したようで、吉岡氏の家督は嫡男の鑑興が継承した。鑑興は長増在世中の永禄四年(1561)ごろより、大友義鎮の側近として申次職を務め、家督を継いだのちの天正四年より大友義統の加判衆を務めた。
 天正年間(1573〜92)は、大友氏と島津氏が死力を尽くして九州の覇権を争った時期であった。天正五年、日向の土持氏が島津氏に使者を送った件について、吉岡鑑興は土持氏に対して薩摩に赴いた使者を豊後に参上させるよう要求している。その後、土持氏は島津氏と結んで伊東氏を攻撃、天正六年(1578)義祐は豊後に逃れて大友氏の庇護を受けることになった。
 かくして天正六年四月、宗麟は伊東一族を道案内として日向に三万余の大軍を派遣、先鋒は佐伯惟教と志賀親教がつとめた。土持氏の拠る松尾城はよく防いだが、ついには落城して土持氏は滅亡した。島津義久は日向に兵を進めたが、備えは堅く島津勢は退いていった。この情勢に気をよくした宗麟は、島津打倒を果たそうと企図して五万余の大軍を率いて豊後を発した。この陣に、鑑興も従軍し高城合戦において戦死した。
 天正六年十一月十二日未明、高城川畔で大友・島津の両軍は激突、敵味方七万余の大軍が入り乱れての大乱戦となった。この合戦は「耳川の戦」と呼ばれ、大友軍は島津軍に壊滅的敗北を喫し、以後、島津氏の攻勢にさらされることになる。
 吉岡鑑興の戦死後、甚橘(甚吉)が家督を継いだ。天正十四年(1586)、島津軍が臼杵に侵入したとき、大友宗麟に従って臼杵丹生島城に籠城して仁王座口を守った。吉岡氏の本城である千歳鶴崎城は、母妙林尼が守って島津軍を相手に善戦した。
 妙林尼の奮戦は戦国の挿話としてもよく知られている。天正十四年、島津軍が高田に侵攻してきたとき家督の吉岡甚吉は不在中で、妙林尼が鶴崎城に籠城して総指揮をとった。鶴崎城の堅守に薩摩勢は攻めあぐみ、白滝山に陣を敷き長期戦に備えた。やがて、さすがの妙林尼も衆寡敵せず降伏して城を開いた。その後、豊臣秀吉の下向により、退却する島津軍を伏兵をもって襲い伊集院美作守・白浜周防守らを討ちとる戦功をあげ「豊後の尼御前」の異名を残した。
 島津氏が降伏したのちの九州仕置によって大友吉統は豊後一国を安堵され、大名の地位を守ることができた。 ところが、文禄二年(1593)の役において朝鮮に渡海した義統が、不忠のことありとして秀吉の怒りをかい 所領没収されるという事件が起った。この大友氏の改易によって吉岡氏も浪人となり、 父祖の地を離れていった。浪人した甚橘は椎原五郎右衛門と改名し、元和七年(1621)、嫡子瀬兵衛が細川忠利に仕え、 子孫は代々細川藩士として幕末に至ったと伝えられている。・2004年12月7日

参考資料:大友宗麟のすべて・豊後鶴崎町史 ほか】


■参考略系図
・大分の歴史/大友宗麟のすべてから作成。  
  


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