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富来氏
●三つ巴/酢漿草
●紀氏流


 富来(とみき)氏は中世を通じて豊後国国東郷の富来城主であり、大友氏に属しその重臣として活躍した。建久七年(1196)、豊後守護となった大友能直に従って鎌倉御家人永井石見守実貞が嫡子実継とともに下向、国東郷富来に居住したのが始まりとされる。いわゆる「下り衆」と呼ばれる武士である。富来に土着した実貞は在名にちなんで富来を称し、曾孫の実忠(忠文)のときの弘長元年(1261)富来城を築き所領支配を安泰させたのである。
 富来氏の初代である永井石見守実貞は、武内宿禰の後裔永井造酒正紀祐安の子で、本姓は紀氏であった。ところで、国東にある伊美八幡は京都の岩清水八幡から仁和二年(886)勧請されたが、勧請を奏請したのは奈良大安寺の僧行教で、行教は紀氏の出身だったことから紀氏が近畿から国東に進出することになった。岐部氏、櫛来氏などであり、富来氏も紀姓であったことから国東郷に配されたとも考えられる。

富来氏の活躍

 富来氏の名をあげたのは、鎌倉末期から南北朝はじめのころを生きた忠茂であった。 忠茂は足利尊氏に随従し、つねにその幕下にあって厚い信頼を受けていた。幕府が滅び建武の新政がなってほどない建武二年(1335)、北条氏の残党が蜂起して鎌倉に攻め込んだ。「中先代の乱」とよばれる争乱で、足利尊氏はただちに兵を率いて鎌倉に下った。そのなかに富来忠茂も加わって、手越河原の合戦に功を立て、鎌倉奪還に活躍した。その後、尊氏は新政に叛旗を翻し箱根竹の下で新田義貞と戦ったが、この合戦にも忠茂は軍忠を抽んでて、逃げる新田軍を追って尊氏とともに京都に攻め上った。
 京都を制圧した尊氏軍は、やがて北畠顕家軍に敗れ九州に逃れたが、その間の戦いに忠茂は嫡子忠挙とともに奮戦を続けた。その後、菊池氏を中核とする九州宮方と多々良浜で戦い勝利をえた尊氏は、ふたたび京都に攻め上った。摂津湊川で楠木正成を討ち取り、新田義貞を破った尊氏は京都を制圧、足利幕府を開いたのであった。この尊氏の上洛には、忠挙が加わっていた。
 その後の南北朝の内乱に際して、富来忠茂・忠挙父子は終始足利氏に属して活躍、あらたに国東郷に入部したきた大友一族で南朝方に属する田原氏と対峙した。忠茂・忠挙父子は鎮西探題織にある一色道猷入道に属して、延文元年(1356)富来五郎、同杢助入道らは道猷に同道して上洛し、その忠節を賞せられた。ところが同五年、田原氏能は重ねて上諸吉・来浦・富来・小原の打渡しを願い、足利義詮は守護大友氏時に、富来杢助入道正寿、同子息兵庫允等の濫妨を斥けしめた。しかし、明徳三年(1392)、富来村は富来木工助正寿跡の人々に一円領掌せしめる旨の御教書が出た。 田原三郎親貞は先日半分拝領したのを不満として愁訴したが、その半分も富来氏へ返却させられることになった。
 富来忠茂・忠挙父子二代にわたる活躍が、幕府や大友氏から信頼を得て、田原氏の訴えを制することにつながったのである。そして、このことは、富来氏の勢力が田原氏と拮抗するほどのものであったことも示している。

大友氏の重臣、富来氏

 忠挙のあとは直賢が継いだが、永享二年(1430)の大友持直証文によれば、豊後国富来浦をはじめ加田久(堅来)・深井(深江)・都甲庄内都甲弥四郎跡・豊前国糸越半分・筑後国三池郡の内宮部村・肥後国山本内・天草内長島半分等を相続したことが知られる。実に富来氏は、五ヶ国にわたって所領を有していたのである。
 忠茂・忠挙の活躍で広範囲な所領を得た富来氏は、直賢の代に大友家中に不動の地位を築きあげるのである。大友親世について元服した直賢は、一字を拝領して親賢を名乗り、ついで親著に仕えて著方と改め、さらに持直から一字を賜って直賢と称した。三代に仕えて、それぞれから一字を拝領するという厚い信頼を得た人物であった。
 直賢のあとを継いだ嫡子の繁英は、大友親隆・親繁の二代に仕えて大老に任ぜられ国政をになった。その後、親繁から一字をもらってそれまでの頼英から繁英に改めた。繁英は政親に至るまでの大友氏歴代に仕えて、各所の戦いに出陣して軍功をあげ、まさに大友氏の柱石とよばれる存在であった。繁英が府内で大友氏の国政にあづかっている間、弟の忠教(のち繁教)が富来の本拠を守っていた。明応三年(1494)、安岐城主田原氏が大友氏に背いて大友館を襲ったが敗れ、安岐城に引き揚げるところを木付親久とともに「みのざき」に要撃して討ち取ったのは繁英・職秀父子であった。
 文亀元年(1501)ころ、 大友親治と大内義興の豊前争奪戦の最中、田原二郎親述が大友氏に叛いた。富来鑑秀は度牟礼城に籠城して田原軍に対峙し、大友本隊の来援を待つ功を立てた。のちにその功に対して来浦六十町分その他の地を預け置かれている。鑑秀の妻は大友義鑑の娘で、名乗りは義鑑から一字をもらったものである。
 富来氏は富来浦を拠点として伊勢氏・姫島氏らの小土豪水軍衆を配下におさめ、岐部氏とともに大友水軍の中核をになって活躍した。富来鑑秀のあと守秀、鑑忠と続き、鑑忠は家督を弟の実直に譲り、自らは府内に住して大友氏の側近くに仕えた。鑑忠の時代は戦国時代の後半期にあたり、大内氏が滅亡したのち中国地方の覇者となった毛利氏が豊前・筑前に進攻してきた。毛利氏が豊前香春岳によると、義鎮の命を受けて鑑忠も出陣、ついで宇佐の大宮司と戦っている。それらの功により天文二十一年(1552)、国東郷半郷役を与えられ、さらに筑後秋月などの内に所領を給わっている。
 やがて、薩摩・大隅えお統一した島津氏が北進作戦を開始するようになった。そして、天正六年(1578)、大友氏と島津氏とは日向の地で相対したのである。日向遠征の大友軍には富来実直・実信父子も参加し、日向耳川の合戦で父子ともに討死した。この敗戦で大友氏は一気に勢力を失墜し、天正十四年、大友義鎮(宗麟)は上洛して豊臣秀吉に救援を求めた。

戦国時代の終焉、富来氏のその後

 かくして豊臣秀吉の九州征伐となり、天正十五年、秀吉軍に敗れた島津氏は薩摩に引き揚げて行った。大友義統は豊前一国を安堵されたが、文禄二年(1593)の朝鮮出兵における不手際で大友氏は改易となり、富来氏も没落の運命となった。朝鮮の役には富来一族も出陣、渡海し、鎮久・忠広らが戦死している。大友氏改易後、統長は日向へと流浪して死去し、その子長利は慶長五年(1600)の佐賀関の戦いにおいて戦死したという。
 富来氏は戦乱のなかで次第に衰退の色を濃くし、ついには没落の憂き目となったのである。朝鮮の役で戦死した忠広の後裔は橋本氏を称したと伝えられ、国東・丹生久所村・鶴崎などに土着した一族も多いといわている。・2005年4月29日

参考資料:国東町史/西国武士団関係史料集 ; 4 /大分歴史事典 ほか】


■参考略系図
・国東町史所収の系図を低本に作成。国東町史の記事と大友氏の系図の歴代を比較すると、微妙に世代のずれが感じられる。  


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