真玉氏
抱き杏葉
(大友氏族木付氏支流) |
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中世の国東半島に一定の勢力を築いた真玉氏は、大友氏の一族木付氏から分かれたものである。とはいえ、大友木付氏流真玉氏の前に、すでに真玉氏が存在したことが知られる。前真玉氏は大神氏系の流れを汲んでいたようで、都甲氏と深い関係にあり、真玉の地頭職を有していた。そして、いくつかの史料に出て来る真玉孫四郎惟氏は、鎮西奉行の命を受け下知状を伝達したり、また争論の実状を調査して報告するなど、ひとかどの人物であったようだ。
文永十一年(1274)十月、蒙古襲来があり、大友一族をはじめ豊後の地頭らが出陣した。戸次氏・志賀氏、臼杵氏、都甲氏、日田氏らで、真玉からは真玉左衛門次郎惟重・惟有父子が従軍し、大友頼泰の指揮下に入って蒙古軍を迎え撃った。
その後、前真玉氏は大友氏流真玉氏(後真玉氏)と真玉地頭職をめぐって対立し、永い間争論を続けたようだが、大友氏という大きな背景をもった後真玉氏に地盤を譲る結果となったようだ。以後、後真玉氏が真玉を領し、前真玉氏は真玉を離れていったという。
大友系真玉氏の活躍
さて、文和二年(1353)正月、大友氏時の命により、木付頼直の弟重実が分封され、大友系真玉氏の初代となり、以後、戦国時代まで続いた。重実が真玉氏を継いだころは、南北朝の争乱期であり、重実は兄頼直とともに大友氏に従い。足利方として行動した。大友氏は九州南朝方の征西将軍懐良親王を奉ずる菊池氏と各地で戦い、重実・頼直兄弟も従軍した。
南北朝の争乱が終息し、室町時代となっても争乱は止むことなく続き、応仁元年(1467)には京都を舞台に「応仁の乱」が起った。この乱をきっかけとして、日本は戦国時代に突入し、世の中には下剋上の風潮が横行するようになる。応仁の乱の影響は全国に及び、それは九州も例外ではなかった。
文明元年(1469)、大友政親は宇佐竜王城に城井左衛門佐、長野壱岐守を討ったが、この陣に真玉繁世も従い軍功を挙げている。ついで、明応四年(1465)周防の戦国大名大内義興が筑前に侵攻し、少弐氏の軍を破り太宰府を略奪した。少弐氏は大友氏に救援を求めたため、政親は兵を率いて豊府を進発し、筑前に向かった。このとき、繁世は先鋒をつとめ、みずから兵船を率いて出陣した。大友軍の出動を知った大内氏は、これを赤間ケ関で迎え撃ち、大友軍は敗れて大将の政親が討死、繁世も長府において戦死した。
戦国時代初期の九州の勢力図は、少弐・大友・島津の三氏が鼎立していたが、そこへ中国の大内氏が割込んできたことで、均衡が破れ状勢は大きく変化した。大友義興のあとを継いだ義隆は、大内氏の勢力をさらに拡大し、筑前・豊前をめぐって大友氏と対立した。義隆は少弐氏を討ち、秋月・原田の両氏を降し、さらに遠く肥前まで兵を進め龍造寺・松浦氏をも降し、大内氏は北九州を掌握したのである。
大友氏麾下の勇将、真玉氏
天文三年(1534)、大内義隆は陶興房・杉隆連を大将として豊前に進攻させた。対する大友義鑑は、十九歳の吉弘氏直を大将に命じ、寒田三河守を副将として兵を出した。大友軍は宇佐方面から敵は進撃するものとして立石峠、地蔵峠に兵を配し、大群山に本陣をおいた。大内軍は宇佐の糸口原に集結していたが、大友軍の布陣をみて兵を勢場ケ原に移動した。これに気付いた大友軍は、作戦の齟齬をさとって動揺したが、血気に逸る大将の吉弘氏直は、一気に敵を撃破せんとして大内軍めがけて突進した。
九州戦国史に有名な「勢場ケ原の合戦」で、両軍、乱戦となったが数に優る大内軍によって氏直は討ち取られ、副将寒田三河守も戦死した。勢場ケ原の戦いを知った、立石峠、地蔵峠の大友勢はただちに兵を動かし、大内軍のまっただ中に攻め込んだ。新手の登場によって大内軍は敗退し、杉興連は討死し、陶興房は命からがら敗走した。この戦いに真玉親房も出陣していたが、大将の吉弘氏直とともに討死し、多くの真玉氏家臣が死傷した。
親房戦死後は治房が家督を継ぎ、大友義鎮に仕えて天文十三年(1544)、同二十年、さらに弘治二年(1556)と出陣した。ところが、永禄七年(1564)義鎮の命により家督を鎮持に譲っている。鎮持は真玉次郎と称し、のち掃部頭を名乗った。鎮持は治房とは九歳しか年が違わないことから、おそらく弟であろうが、治房から鎮持への家督移譲には何らかの政治的配慮が動いたものと思われる。
真玉氏の家督を継いだ鎮持は、義鎮に従って筑後に出陣、さらに筑前にも出陣した。さらに元亀三年(1572)には伊予の西園寺氏を攻め、鎮持は水軍を指揮して先陣をつとめ、水軍「北浦部衆」の名を高からしめた。
大友氏の没落、真玉氏の滅亡
天正六年(1578)、大友宗麟(義鎮)は日向に進攻した。しかし、島津軍と高城・耳川で戦って潰滅的敗北を喫し、大友氏は大きく勢力を失墜したのである。真玉鎮持もこの遠征に従ったが、重臣井口秀虎を失い、みずからも戦場を負うという結果となった。そして、そのときの傷がもとで翌年に死去してしまった。
真玉氏の最後の当主となったのは統寛であった。天正十四年、島津軍が豊後に乱入した。このとき、統寛は宗家木付鎮直らとともに島津軍と戦い、島津軍を国東郡に入れなかった。その後、豊臣秀吉軍の九州進撃により、島津氏は兵を引き、大友氏はなんとか滅亡を逃れた。
真玉統寛は、宗麟のあとを継いだ大友義統に仕えた。天正十八年、豊臣秀吉の小田原征伐に大友軍も出陣したが、その中に真玉統寛も加わった。ところが、真玉を出陣して竹田津に向かう途中の香々地長小野の峠において、突然、家臣らが叛乱を起し、統寛は斬られて落命した。この思いもかけない事件によって、真玉氏はあえなく断絶ということになった。
家臣の謀叛の背景には、治房・鎮持兄弟の家督相続に際して、家中に争いがあった結果かとも思われる。さらに、最後の当主となった統寛は、母の名も卒年も不明で、しかも治房の子なのか鎮持の子なのかも判然としないのである。真玉氏の末期には、今となってはうかがい知れない謎が横たわっているといえそうだ。
【参考資料:豊後国東半島史/真玉町史 ほか】
■参考略系図
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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