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岐部氏
●房付き檜扇の剣酢漿草
●紀氏流
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豊後国国東郡伊美の庄に鎮座する伊美八幡は、仁和二年(886)に京都の岩清水八幡から勧請されたと伝えられている。勧請を奏請したのは奈良大安寺の僧行教で、行教は紀氏の出身だったことから紀氏が近畿から国東に進出するようになり、豊後国東に紀氏が広まったという。
岐部氏は紀氏の一族であることは間違いないが、その直接の出自は分からない。伝によれば貞観八年(866)、豊後守に任ぜられた紀継雄の子秀任が国東郡司になって以後、子孫が代々郡司職を継承して、郡内各地の開発領主となって国東紀氏が繁衍していったのだとされている。そして、岐部氏・櫛来氏らは国東水軍の雄に成長していった。
鎌倉期の岐部氏は宇佐八幡弥勒寺領岐部庄の下司で、幕府御家人であった。しかし、岐部浦十五町を領するばかりの存在に過ぎなかった。また、岐部氏が代々の居城とした岐部城は、鎌倉時代に岐部成久によって築かれたと伝えられ、成久は「弘安の役」にも参陣して戦功を立てており、岐部氏が水軍として活躍していたことが知られる。
岐部氏が大きく飛躍するのは室町時代に入ってからである。そのきっかけは、南北朝の争乱のなかで国東紀氏の惣領であった溝部氏が田原氏の被官化し、大友氏の被官であった岐部氏が紀氏を代表するようになったことにあった。以後、岐部氏は大友氏に仕えて、永享八年(1436)の姫岳の戦いには岐部山城守の名が見られる。
大友麾下、豊後水軍の雄に成長
岐部氏がもっとも勢力を拡大するのは、山城守泰弘の時代で、泰弘は康正二年(1456)から文明三年(1471)ごろまで、大友親繁の「加判衆」をつとめている。加判衆とは、大友氏の当主が発給する文書に加判する重臣であった。当時、大友庶家(同紋衆)・他姓衆らの大友家臣のなかにあって泰弘は長老的存在であったようだ。
やがて、戦国時代になると、大友一族を含む有力国人衆が加判衆に進出し、大友氏の権力構成が変化していくなかで、岐部氏のような他姓衆は権力の中枢から遠ざけられていった。とはいえ、無力化したというものではなく、それまでの大友家中における一定の地位もあって、家格と発言権を認められた側近衆へと転化していったようだ。
戦国末期、岐部氏をはじめ富来・真玉・都甲・櫛来氏らは「国東郡衆」と呼ばれ、大友氏の直臣団となっていた。かれらは水軍組織を有し、水軍として動員される国東郡衆は二十数家におよんだ。そのなかで、岐部氏は中心的な存在であった。
伝えられた文書によれば、戦国期の岐部氏の家督は代々太郎・弥太郎を通称とし、木工助・能登守を名乗ったようだ。そして、大友義長・義鑑時代は能登守元泰、義鎮期は因幡守鑑泰、義統期は弥太郎統成が岐部一族惣領家の家督にあったことが知られる。
ところで、戦国時代末期に岐部信泰があらわれ左近入道として知られるが、信泰は岐部一族のなかでは庶子系の家であったようだ。岐部一族は宗麟の影響と勧めもあってキリシタンになったものが多く、信泰も洗礼を受けたキリシタンであった。左近入道は大友義統に近侍して、「文禄の役(1592)」に際して朝鮮に渡海した。ところが、義統は朝鮮における不手際で秀吉から所領を没収されてしまった。以後、信泰は関東、大坂と流浪を続ける義統に仕えて行動をともにし、文禄四年(1595)には竹田津・臼杵氏らとともに義統に誓書を呈している。
やがて、慶長四年(1599)、大坂天満に移った。翌五年に関ヶ原の合戦が起ると、義統は西軍に属して家名再興を期し、豊後に帰国した。左近入道も義統に従って帰国、九州西軍として木付城攻めに加わり、石垣原の戦いで討死した。それ以後、岐部氏の武将としての動向は伝わっていない。
ところで、岐部川の河口近くにある胎蔵寺は、養老年間(717〜724)仁聞菩薩の開基と伝えられ、もとは六郷満山寺院のひとつであったが、天文二年(1533)浄土宗に改宗した。岐部氏代々の菩提寺で、岐部能登守元泰などの位碑が祀られている。
ペトロ・カスイ岐部
先述のように岐部氏一族は、大友宗麟の影響もあって、キリスト教に改宗する人が多かった。その中心となっていたのが、ロマノ岐部とマリア波多の夫婦であった。天正十五年(1587)、二人の間に生まれたのがペトロ・カスイ岐部で、日本名は岐部茂勝であった。
ペトロは両親の影響もあって、幼少からキリスト教に入信し、国内で布教にあたっていたが、慶長十八年(1613)に禁教令が発されるとマカオに追放された。その後インドを経てローマに行き、イエズス会に入ってグレゴリオ大学で学び司祭になった。寛永七年(1630)、日本に帰ったペトロは、厳しい弾圧下で布教活動を続けた。しかし、寛永十六年、奥州仙台領で捕縛、江戸で斬首され、波乱に富んだ生涯を閉じた。・2005年6月17日
【参考資料:国見町史/大友宗麟のすべて(新人物往来社刊)/西国武士団関係史料集-2 ほか】
■参考略系図
・岐部氏の系図としては、藤原氏波多系図(西国武士団関係史料集-2)が伝えられている。それによれば、岐部氏は藤原秀郷の後裔である波多野氏の分かれとなっている。そして、人名のみが列記され親子、兄弟関係は読み取れないものであり、古文書にみえる名前もない。ただし、最後の方の部分はある程度の真を伝えているようでもある。ここでは、古文書から作成したもの(上系図)と波多系図の最後の部分から作成したもの(下系図)を掲載した。
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