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於保氏
八つ日足
(藤原北家高木氏流)


 於保氏は高木氏の分流で、高木宗貞の孫宗易が佐賀郡於保に住してはじめて於保氏を称した。於保氏の出た高木氏は肥前国国府の南郊、佐嘉郡高木村から出た豪族で藤原氏の後裔という。すなわち、「刀伊の入寇」を撃退するのに活躍した大宰権帥藤原隆家の曾孫文貞のとき高木を称したのだと伝えられる。高木氏からは、菊池・上妻・草野・龍造寺の諸氏が分出したというが、高木氏はもとより高木一族という諸氏の発祥に関しては系図も混乱しており、曖昧模糊としたものというしかない。
 さて、『歴代鎮西志』に於保氏の名があらわれるのは、文治二年(1886)のことである。同書には、甘南備城主高木宗貞の二男家綱の嫡子宗益が於保氏を名乗ったとある。高木氏は鎮西の大族で、河上社の宮司職を掌し、幕府御家人となり宗益の子宗高は京都大番役をつとめている。
 弘安の役の戦功で、肥前国執行職を任じられ佐賀郡於保村に進出した。於保氏が本拠とした於保村は嘉瀬川の西部地域で、現在の於保天満宮のある場所が於保氏の館跡といわれている。
 南北朝時代は北朝方に属して、於保弥五郎弼宗は少弐氏に味方して「筑後川の合戦」に参加、菊池武光と戦った。その後、少弐氏が南朝方に転向するとそれに従い、宗喜は姪の浜合戦で負傷している。

戦乱を生き抜く

 戦国時代はじめの永正二年(1505)、於保鎮宗の子資宗と弟の胤宗は横辺田の合戦で討死した。ついで天文三年(1534)、資宗の子弼親が大内氏と龍造寺家兼の戦いにおいて戦死した。そして天文十四年、鎮宗は龍造寺家純らと多久城を攻めたが、戦いは龍造寺勢に敗北となった。このときの戦いで鎮宗は、搦手の志久峠で戦死した。
 戦国時代とはいえ、三代にわたって一族の多くが戦死したため、於保氏は没落の運命となった。しかし、胤宗の室が龍造寺家兼の女であったことから、胤宗の子宗益は龍造寺氏に取り立てられ、於保家の再興が成っている。ところが、宗益の二男宗暢は元亀元年(1570)、大友氏が龍造寺隆信を攻めた「今山の陣」において、大友軍に味方してその先陣となった。
 今山の陣は大軍を要する大内勢に夜襲をかけた龍造寺軍の勝利に終ったが、その戦いのなかで宗暢は奮戦、ついには戦死を遂げている。宗暢の室は隆信の妹であったといい、祖父胤宗とともに龍造寺氏の姻戚にありながら大友氏に加担したのは、戦国時代のなせることだったのであろうか。
 一方、弼親のあとを継いだ賢守は、龍造寺氏に属して「今山の陣」には、鍋島信生(のち直茂)に従って奇襲勢に加わり、龍造寺氏の勝利に貢献した。その後、多久城攻め、平井経治の拠る須古城攻めに参加し、それぞれ抜群の働きを示している。
 天正十年(1582)、筑後の田尻鑑種が龍造寺氏に服した。間もなく、龍造寺政家と鍋島信生が柳河城から鵜川を通って瀬高に通過することを聞いた鑑種は、疑心暗鬼を生じて兵糧・弓鉄砲・玉薬などを用意すると籠城した。この事態に対して、鍋島信生と後藤家信は田尻氏を攻撃した。戦いには成富信安・石井二郎左衛門、そして於保賢守らが参加して必死の攻撃を行ったが、田尻方の手強い防戦によって、龍造寺勢は兵を引き揚げた。
 その後、龍造寺氏に代わって鍋島氏が佐賀藩主として徳川政権下の大名となり、於保氏も鍋島氏に仕えた。『於保氏系図』によれば、賢守は須古の戦いのときの負傷がもとで元和七年(1621)に死去したと伝えられている。

参考資料:佐賀の戦国人名志 ほか】


■参考略系図


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