大津山氏
五段梯/四つ目結
(藤原北家日野氏流)
・大津山氏系図に記載あり。 |
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中世、肥後と筑後にわたる山中に居をかまえた大津山氏という武家があった。応永二年(1395)に河内国からやって来た家で、いまの熊本県玉名郡南関町を本拠として約三百十二町を領した。一方、大津山氏の出自は、日野大納言資名の子資基が足利尊氏に仕え大津山氏初代となったとする説もある。伝えられる系図では、大津山氏の初代は資基となっている。
大津山氏の所領は、肥後と筑後の山間にまたがり、近世の石(村)高に換算して約一万四千石で、小大名並みの領地を有する国人領主であった。七代資冬の時に大友氏に叛旗を翻し、本城である大津山城は落城し資冬は流浪した。 その後、大友氏の重臣小原鑑元が大津山城に入ったが、鑑元も大友氏に叛旗を翻したため、大津山城の勝手知ったる資冬が落城させ城主に復帰した。
その後、八代家稜(いえひと)のとき、秀吉の九州征伐に遭遇した。家稜は秀吉がやって来たとき城をひらいて筑後境に出迎え、本領を安堵された。そのとき、秀吉は本来ならば国々の小領主は承認しないのが建前だが、わざわざ出迎えて先導をつとめるのは感心だから、城の周囲50町の所領を認めてやろうと言ったという。
ところが佐々成政が肥後の領主となると、大津山氏の土地を取上げて国外に退去させた。このような成政の姿勢に肥後の国人らが反発し、大津山氏は同志を語らって一揆を起し成政に反抗することとなった。このとき北肥後の山中の武士たちは、多くが大津山氏に一味して大いに成政を苦しめた。事態収拾に苦慮した成政は、大津山氏に和議に応ずるなら三千石を与えようという謀略をもって、大津山氏を誘った。これを信じた家稜は、城を出て成政のもとを訪れその場で殺害され、大津山氏は呆気無く没落してしまった。
しかし、成政も国人一揆蜂起の責任を追求され、結局、切腹して滅亡した。そのあとには、加藤清正と小西行長が肥後に入国し、肥後の戦国時代も終わりをつげた。大津山氏の子孫は、柳川立花氏に仕えたと伝えられている。
・大津山氏のこと
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秀吉が九州征討のため乗り込んで来たとき、やはり肥後と筑後にわたる山中に居をかまえた大津山氏という武家があった。応永二年(1395)に河内国(大阪府中東部)からやって来た家で、いまの熊本県玉名郡南関町を本拠として約三百十二町を領した。秀吉がやって来たとき城をひらいて筑後境に出迎えたが、そのとき、秀吉はこう言った。本来ならば国々の小領主は承認しないのが建前だが、わざわざ出迎えて先導をつとめるのは感心だから、城の周囲50町の所領を認めてやろうと。
ところが佐々成政が肥後の領主となると、大津山氏の土地を取上げて国外に退去させた。そこで大津山氏は心平らかならず、同志を語らって一揆を起し成政に反抗することとなった。このとき北肥後の山中の武士たちは多く一味して成政に叛旗をひるがえし、大いに成政を苦しめたのだが、大津山氏はもし成政と会談して和議に応ずるなら三千石を与えようという甘言に乗せられ、城を出て行って暗殺されてしまった。
大津山氏の所領は、肥後と筑後の山間にまたがり、耕地320町、近世の村高に換算して約一万四千石であった。その中心は累代の家臣六名が各百石ほどの土地を下人に耕作させていた。そのほか有力な武士が三十四人、また若党三十人の計約六十余人が田一町、畠一町程度を耕作し、戦には騎馬ではせ参ずる。そのほかに力と呼ばれて戦場では雑兵として戦う者が約三十名、これらは田五反畠五反ほどを耕作し、その下にさらに下力と呼ばれる田畠三反ほどずつを作る者が数百人あった。これらは農民として名頭と呼ばれる郷民頭六名の支配を受けた。
領民の年貢は田を持つ者は人ごとに三升六合を入れた俵一つを納める。そのほか所持の田一反につき銭百文、畠一反につき銭五十文を税として出したという。もちろん、このほかに戦争には軍役として参加の義務があり、天正十四年(1586)に島津氏に属して筑前勢と戦ったときの大津山軍の勢揃えでは、総数二百五十名、うち騎馬武者七十人、足軽百人であった。後に大津山氏が佐々成政に追われて城を出たときの人数も約二百六十人というから、この人数が大津山領の兵力とみられる。
大津山氏がその東に領土をもつ辺春一族と戦ったとき、その有力武士小野権之丞は23歳の若さで辺春方の鉄抱に胸を打ち抜かれて死んだ。これを聞いた妻は戦死は武士として当然だから悲しくはないが、夫の仇が討てない女の身が残念だといって二十歳で自害した。
辺春氏は筑後八女郡の辺春村(現立花町)が名字の地であつて、而も其領分は今の肥後玉名郡緑村大字山十町・中十町等の村々に及び、国境に近い肥後分の山十町村阪本と云ふ処に居城があつた。辺春氏の親族には和仁某と云ふ家があつた。此家の領地は今の玉名郡春富村大字和仁を中心として、筑後側の八女郡白木村の辺に及んで居た。【http://www.sysken.or.jp/Ushijima/yamanotami.html】
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■参考略系図
・『肥後読史総覧』所収系図から作成。
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