丹羽氏
直違い (武蔵七党児玉党) |
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丹羽氏の祖は、武蔵七党の一つ児玉党といわれ、本姓桓武平氏ということになる。尾張国丹羽郡児玉村の居住であり、その児玉と児玉党が結びつけられた結果ととれなくもない。いずれにせよ、古い時代のことは明かではなく、いつのころか尾張国に住み、尾張守護斯波氏に仕えるようになったという。
長秀は十五歳で信長に近侍し、たびたびの戦功によってしだいに重臣となった。元亀二年の浅井氏攻撃の功によって近江佐和山城に入った。本能寺の変の時は、長秀は織田信孝を奉じて四国に出陣すべく、大阪に待機中であった。つまり、弔合戦のためには最短距離にあり、兵力も備えていた。そして光秀攻撃の第一歩として、光秀の女婿津田信澄を殺したが、あとは秀吉に合流して、山崎の合戦に参加。結局、弔合戦の功は秀吉に一人じめされてしまった。
絶好の位置を生かしきれなかったのは、秀吉との器量の差であったろう。
清洲会議の結果、若狭と近江二郡を与えられて大溝城に入った。ついで、柴田勝家滅亡後の越前北の庄に入り百二十三万石を領したが、三年後に病を得て長秀は死んだ。
その子長重は秀吉に属したが、たびたび所領の削減・加増があり、関ヶ原の合戦直前は加賀小松城主で十二万五千石だった。関ヶ原の時は、前田利長と争っていたため参陣せず、所領は没収されてしまった。しかし、のちに大名に復活し、光重の代に陸奥二本松十七万余石を領し、幕末まで続いた。
■参考略系図
*『古代氏族系譜集成』に収録されている武蔵七党児玉党とする丹羽氏の系図を底本として掲載。しかし、世代数に疑問が残る系図ではある。
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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