本告氏
六つ矢車
(服部氏流?)
|
|
肥前国の櫛田宮は旧長崎街道神埼宿のほぼ真ん中に所在し、博多の櫛田神社の本家として知られている。その創建は、社伝によれば景行天皇が神埼地方を巡行された折、この地に不幸が続いて人民が苦しんでいた。そこで、神を祭りあがめたら災厄がなくなった。そして、櫛田宮の創建はこの時であるという。さらに、神の幸をうける地というところから「神幸(かむさき)の里」と名付けられ、今は「神埼」と書かれるようになったのである。
永久三年(1115)、鳥羽天皇が櫛田宮を修造され、伴兼直と本告道景を勅使別当職として下向させられた。そして、伴兼直は執行家の祖となり、本告道景が本告家の祖になったのだという。ちなみに、本告は「もとおり」と読み、牟田ケ里七百町を本領とした。
本告氏は櫛田・高志・白角折の三社宮を預かり、建長元年(1249)十一月に本告季能が幕府から正式の命を受け櫛田宮の宮司職に補任されたのである。正和四年(1315)、櫛田宮の大改修に際しては、北条英時を大檀那に迎えて造営工事が行われるなど、櫛田宮の神威は絶大であった。
特に「元冦の役」ののち、幕府の勲功田が神埼郡に集中してきたことで、さまざまな訴訟や論争が発生した。
本告氏の武士化
このころになると本告氏は武力化し、ときの当主恒景は少弐政資に櫛田三社領は守護不入の地であると書状で書き送っている。そして、本告氏は櫛田宮の社寺免田等、百四十町余りを知行していた。南北朝時代になると、肥後の菊池氏が九州南朝方の中心として活躍したが、それに対して少弐氏が対抗した。すでに武士化していた本告氏は、少弐方に味方していたことが知られる。
戦国時代の天文二十二年(1553)十月、龍造寺隆信が蓮池城を攻めたとき、本告牟田城主の本告頼景は三百余騎の兵を率いて、蓮池城攻めに加わったが、蓮池方の馬場越後守に討たれて戦死した。永禄元年(1558)には、蓮池の小田政光を先陣として、本告義景がこれに従って出兵している。小田勢は神埼口の大手門から勢福寺城に入り、長者林を舞台にした莞牟田縄手で、神代勝利と戦い戦死した。このとき、一方の社家である執行氏は神代方にあった。
龍造寺の勢力拡大を懸念した大友宗麟は、先に滅亡した少弐氏の再興を画策し、少弐氏を隆信の対抗勢力にしようとしたことで、大友・龍造寺両氏の緊張は一気に高まった。元亀元年(1570)、宗麟は隆信を討つ好機と判断し、三万の軍勢を肥前に差し向けた。またたくく間に大友氏は龍造寺氏居城佐嘉城を包囲した。この窮地に際して龍造寺氏の重臣鍋島直茂は乾坤一擲の奇襲作戦を行い、龍造寺軍は奇跡的勝利を得たのであった。
この「今山の合戦」ののち、本告増景は龍造寺氏にいち早く和平を申込み許された。以後、本告氏は龍造寺氏の配下に属し、元亀三年には、龍造寺隆信が東肥前を制圧したとき、櫛田宮に陣を布いたことが知られる。龍造寺隆信・政家の幕下衆知行を見ると、神埼郡本告・三百町本告左馬大夫がみえている。この左馬大夫は本告義景の嫡子信景であった。
【参考資料:・神埼町史/佐賀の戦国人名志/肥前国誌 ほか】
■参考略系図
・調査中、御存知の方情報をお寄せ下さい。
|
|
戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
|
|
|