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持永氏
●丸に二つ引両
●清和源氏今川氏流
・家紋は今川氏の代表紋を掲載したが、桐紋の可能性もある。
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後醍醐天皇に対する足利尊氏の謀叛に始まった南北朝の戦いは、北朝方=武家方の優勢に推移したが、九州は征西将軍宮懐良親王の武略と、親王を支える肥後の菊池武光の活躍があって南朝方が北朝方を圧倒していた。
建武三年(1336)、多々良浜の合戦に勝利した尊氏は、九州を総括する探題として一色範氏を九州に残した。範氏は少弐・大友・島津の九州三人衆を率いて、九州南朝方と対峙した。しかし、文和二年(1353)菊池氏と結んだ少弐氏と針摺原で戦い敗れた範氏は、文和五年に九州から逃れ去った。正平十五年(1360)三月、幕府は斯波氏経を新探題に任じたが、氏経も長者原の戦いに敗れ、思うような成果を出せないまま貞治三年(1364)に帰京した。
かくして、九州南朝方は太宰府を抑えて征西将軍府を樹て、その威勢は隆々たるものがあった。対する幕府は、正平二十年(1365)五月に渋川義行を九州探題として派遣したが、義行は中国地方で南朝勢力の抵抗にあって九州に入ることもできなかった。ここに至って幕府は、幕府の引付頭人、侍所頭人の重職をつとめ、今川氏の重鎮で名将と謳われる今川貞世入道了俊を九州探題に補任した。
九州探題、今川氏
了俊は田原氏能や阿蘇氏・都甲氏らに九州下向を告げると、応安四年(1371)、九州下向の途についた。了俊は安芸守護に任じられ、中国筋の諸勢力を糾合して兵力を増強した。一方、嫡男の今川義範(貞臣)を田原氏能と同行させて豊後に派遣、高崎城に入った義範は大友氏らを従えて足場を固めた。また、弟の今川仲秋(国泰)を肥前国松浦に派遣し、自らは本軍を率いて豊後国門司に陣を張った。了俊は綿密な布陣をもって、豊後・肥前そして豊前の三方から太宰府の征西将軍府と相対したのである。
肥前国松浦に上陸した仲秋のもとには、松浦党の伊万里貞・山代栄ほか、多久宗国・高木家直・馬渡経俊・後藤資明・龍造寺家治・安富直安・江上四郎らが集まり、ことごとく仲秋に従った。 応安五年(1372)、仲秋は肥前に攻め込んできた南朝方の菊池武政を撃退し、筑前にいた兄了俊と合流した。同年八月、仲秋は菊池武安の軍勢と筑前で戦いこれを撃ち破った。一方、了俊も太宰府を攻め落とし、懐良親王・菊池武光らは筑後国高良山に落ち延びていった。やがて、九州南朝方の柱石であった菊池武光が死去し、九州南朝方は衰退の一途をたどることになる。
こうして、今川了俊の活躍によって、九州南朝方は次第に勢力を失っていった。了俊は戦いに功のあった武将たちに論功を行い、豊後は大友氏継が、少弐冬資には筑後・肥前の両国が、日向は伊東祐煕が、大内義弘は周防・長門などに加えて豊前が、薩摩は島津氏久が安堵された。そして、仲秋には肥前のうち佐嘉・杵島・高来三郡が、千葉介胤泰は小城郡を安堵されたのである。
明徳三年(1392)南北朝の合一がなり、応永二年(1395)には了俊に対して京都召還の命が下った。了俊は拒否しようとしたが、結局二十五年間にわたる探題職を解かれて京へと帰り、仲秋も駿河へと帰っていった。
九州今川氏の誕生
了俊と仲秋の管掌した領域は仲秋の子で、千葉胤泰の孫にあたる国秋が受け継ぎ、国秋は小城郡中郷にある牟田城に居住して九州今川氏の惣領となった。
千葉胤泰のあとを継いだ胤基は、鑰尼泰高を重用し家宰として家政を任せたが、泰高は少弐貞頼と密約を結んで謀叛を起こした。胤基は九州探題渋川満頼と今川国秋に連絡し、応永十一年(1404)、鑰尼・少弐軍を佐賀郡川上の戦いで破った。戦いは胤基方の勝利となったが、胤基に味方して参戦した国秋は討死した。
国秋のあとを継いだ国治のとき、千葉氏に内紛が起った。千葉胤鎮の老臣の中村胤宣が胤鎮の弟胤紹をかついで胤鎮を追放したのである。対して千葉譜代の家臣らが胤鎮を奉じて反撃に転じ、胤紹・中村胤宣らは敗死した。そのときの戦いに、今川国治・その子秋弘らは胤紹方に味方して討死、今川氏領であった佐嘉・杵島の両郡は押領されてしまった。
その後、胤秋が千葉氏に取り立てられ、与賀・川副両郡の地頭として復活した。ところが、寛正六年(1465)、千葉教胤家臣団の弱体化を図る大内政弘・渋川教直らは、今川胤秋が小城郡に攻め込もうとしているといううわさを流した。そして、これを信じた教胤の家宰中村胤頼が佐嘉郡新庄にあった今川館を攻撃、胤秋らはこれを迎え撃ち、激戦の末に双方とも兵を引いた。
翌文正元年、千葉教胤はふたたび胤秋を攻撃した。対する今川勢は、応仁元年(1467)、九州探題渋川氏と結んで小城に進攻した。戦いは探題・今川連合軍の敗戦に終わり、胤秋は弟胤弘とともに戦死して今川一族は瓦解し、所領はことごとく千葉氏に奪われた。
今川氏の没落、持永氏として復活
胤秋の子義秋は勢力回復を狙って旧臣を集めて挙兵したが、千葉勢の前に敗れ九州今川氏の嫡流は断絶した。その結果、義秋の叔父にあたる今川秋秀が千葉氏に召し出されて九州今川家を継いだ。以降、秋秀の子孫は千葉氏の家臣となり、子の秋景は名字を今川から持永に改めた。
秋景の孫治部少輔盛秀は勇将として知られ、天文・永禄・元亀・天正と激動の戦国時代を生き抜いた。天文十四年(1545)、龍造寺家兼が、馬場氏を攻めたとき、鴨打・徳島氏らとともに家兼に味方して参戦、軍功をあげた。永禄六年(1563)三月、肥前島原の大名有馬晴純が、龍造寺氏を攻撃してきたとき、小城郡丹坂峠において鴨打・徳島氏らとともに活躍、有馬勢を撃退する功をあげた。ついで、元亀八年(1570)の今山の合戦、天正十年(1582)の筑後戸原城攻撃に際して鍋島直茂に従い、戸原城攻略に功があった。その子平六も盛秀とともに隆信、鍋島直茂に従い、数々の合戦に出陣した。
一方、盛秀と同じく秋景の孫にあたる茂成も隆信、鍋島直茂に従って、諸所の合戦に出陣して活躍した、文禄元年(1592)の「文禄の役」には、成富茂安とともに直茂に従って朝鮮に渡り、前後七年、朝鮮に在陣した。その間の軍功により一千石の知行を与えられ、大物頭に就任した。
江戸時代、持永氏は盛秀の流れも茂成の流れともに小城鍋島氏に仕え、いずれも小城藩士として近世に続いた。・2005年6月17日
【参考資料:牛津町史/福岡県史 ほか】
■参考略系図
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
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