馬屋原氏
二つ引両
(清和源氏義綱流) |
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戦国時代後期、安芸国神石郡に勢力を張った馬屋原氏は、
前九年の役で知られる鎮守府将軍源頼信の次男、加茂次郎義綱の後裔という。義綱の兄八幡太郎義家の四代の孫に鎌倉幕府を開いた源頼朝が出で、さらに新田・足利・山名・里見らの諸氏が分かれ出た。また、弟新羅三郎義光の子孫からは武田氏・佐竹氏・小笠原氏ら錚々たる源氏の名門が分出した。
不詳なる出自
『萩藩諸家系譜』に収められた「馬屋原氏系図」によれば、義綱の子義重は右京大夫に任じ、上総国馬屋原庄に居住して馬屋原を称したという。義重より十五代の孫光忠は故あって備後国に配流され、神石郡志摩利庄有井城に拠る馬屋原氏に預けられた。光忠は志摩利庄のうち小畠に小屋を建て有井城から扶持を受けていたが、のちに小屋を城構えとして勢力を張るようになり暦応四年(1341)に死去したとある。
系図の記述を信じる限り、馬屋原氏は十四世紀のはじめの動乱の時代に東国から遠い備後国に西遷した武家ということになる。しかし、天承二年(1132)に没した義綱から光忠まで、十六代を数えるというのは早婚続きであったとしても世系が多すぎると思わざるをえない。また、中世の系図集として信頼の高いものとされる『尊卑分脈』の源義綱のところを見ても義重の名は記されていない。馬屋原氏の出自を清和源氏に求めることには無理があるというしかないようだ。
一方、光忠を庇護した有井城主馬屋原氏は、『神石郡誌』などによれば鎌倉時代に馬屋原備前守貞宗が志摩利庄の地頭になって入部したことに始まるという。そして、元弘の争乱期には成宗が南朝方の桜山城主桜山滋俊と敵対、観応の擾乱期には宮氏とともに各地を転戦した。以後、その動向は知られないが、戦国時代の大永七年(1527)、大内氏と毛利氏の間にあって馬屋原氏は分裂した。すなわち、兄正国は大内方に、弟の元政は尼子に属して対立したのである。結果、正国は新たに九鬼城を築いて移住、尼子氏・毛利氏・宮氏の攻防に翻弄された。
こうしてみると、備後に流されてきた光忠は馬屋原氏の庶子家と考えられ、本家の有井城主馬屋原氏と協調しながら勢力を蓄積していった。そして、有井城馬屋原氏の内部抗争を横目に毛利元就に属し、毛利氏が勢力を拡大するにつれ馬屋原氏の主流となっていたのであろう。
神石郡の最有力領主へ
ところで、馬屋原氏が拠った神石郡は室町幕府の御料所が多く、その代官として備後国奉公衆の宮氏・杉原氏らが登用されて勢力を有していた。また、隣国の備中に割拠する平川氏、赤木氏らの勢力も浸透するところであった。室町時代中ごろの康正二年(1456)、志摩利庄は幕府近習の伊勢備後入道、杉原美濃守らが支配していたことが当時の史料から知られる。
光忠系馬屋原氏は。天文十一年(1542)備前守範政が毛利方となり、弘治元年(1555)嫡男義政の養子として元就の甥敷名元範を迎え、その後、一族の馬屋原信春も元範の子を養子に迎えて毛利氏との関係を強めた。そして、馬屋一族は神石郡における毛利方の拠点として機能したのである。やがて、宮氏が没落、杉原氏も勢力を失うと、馬屋原氏は毛利氏より高蓋・豊松などを与えられ、神石郡最大の勢力に成長したのであった。
元範の嫡男元政は文禄二年(1593)、朝鮮に渡海して戦死したため、次男の四郎兵衛元詮があとを継ぎ輝元側近として活躍した。その後、元詮は前原と改めたが、江戸時代に馬屋原に復している。
ところで、分裂した有井城主馬屋氏は、紆余曲折はあったものの毛利方として勢力を維持、春時のとき豊臣秀吉の山城廃 城令によって固屋城山麓に屋敷を構えて移り住んだという。いまも、小畠には正国が造営したという亀山八幡宮、菩提寺岩屋寺があり、かつての馬屋原氏の名残をいまに伝えている。
【参考資料:広島県史・萩藩諸家系譜・日本城郭体系 など】
■参考略系図
・萩藩諸家系譜の馬屋原氏系図・尊卑分脈・日本城郭体系 より作成
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