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三河高木氏
違い鷹の羽*/卍
(清和源氏頼親流)
*斑紋があることで「高木鷹の羽」の名で呼ばれる。卍は替紋。


 三河国紺碧海郡高木から起こった。清和源氏頼親の七世の孫信光がはじめて高木を称したという。その子孫がやがて三河・尾張に分かれて居住したと伝える。降って、六郎左衛門宣光は三河国.碧海郡牧内に、その子清秀は水野信元に従って尾張国知多郡緒川に住した。
 のち清秀は信元と隙を生じ、織田信長の父信秀に仕え、天正17年(1548)三月、今川義元が松平広忠を後援して信秀軍と戦った三河小豆坂の合戦で功名をたてた。当時、水野信元は今川家と絶って織田方に好を通じており、信元の招きをうけた清秀は再びその麾下に転じている。
 永禄三年(1560)五月、桶狭間で今川義元が討死した機をとらえ、家康は岡崎城へ入って独立し、翌年水野領へ 侵攻し尾張横張・石瀬で信元と対陣する。清秀は、石瀬合戦で家康の重臣石川数正らと七度にわたり槍を交えた。 同年春、家康は織田信長と和睦する。
 永禄六年秋に三河一向一揆が蜂起し、家康は苦戦を強いられる。信元は甥家康を救援するために出馬し、 これに従った清秀は一揆勢を相手に奮戦、浅手を負った。翌年、一揆を鎮圧した家康は、清秀が水野家に属しているにも かかわらず、高木氏の故地三河大岡郷領知の判物を与え、その働きを賞したという。
 元亀元年(1570)六月の姉川の合戦ごろから信長の命で織田軍に直属する形になった清秀は、天正二年七月、伊勢長島の一向一揆攻めに出陣し、先頭を進み、敵陣に切り込んで一揆の主魁盛林坊を討ち取って武名を響かせた。が、この合戦では嫡男光秀を失っている。
 天正三年末、水野信元が信長の命をうけた家康に誅殺されると、清秀は織田家宿老佐久間信盛の与力に配され、石山合戦、大和信貴山城攻略、摂津有岡城攻めなどで戦功を顕わしている。
 本能寺の変後、天正十年十月から家康に仕える清秀は、千石を給された。同12年に小牧・長久手の役が起こると、内藤正成と目付役をつとめた。同18年八月、家康が関東入国すると、相模・武蔵・上総三国内で五千石の加増され、文禄三年(1594)に致仕したのち相模高座郡海老名に隠棲した。
 清秀は慶長15年七月に天寿をまっとうし、三男正次の家系が、河内丹南藩一万石の大名として続いた。



■参考略系図

 


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