小西氏
久留子/中結祇園守
(藤原氏秀郷流?)
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戦国時代、和泉堺の豪商出身で、キリシタン大名として有名な小西氏がいた。伝えられる系図によれば、藤原氏秀郷流内藤氏の後裔となっている。すなわち、細川澄元に仕えて丹波国守護代をつとめた内藤備前守貞正の弟久清の子次忠が小西氏を称したのだという。次忠の子が寿徳・小西隆佐(立佐)で、隆佐の子が秀吉に仕えて肥後半国の大名に出世した小西摂津守行長であった。
丹波内藤氏といえばキリシタン大名として知られる内藤ジョアンの出た家であり、同じくキリシタン大名であった小西氏となんらかの関係があったとも想像される。とはいうものの、小西氏の出自に関しては不詳というしかない。
小西行長の登場
通説によれば、小西隆佐は堺の薬種問屋で会合衆の一員であった小西家の一門で、はやくから京に上り、天正八年ごろに羽柴秀吉に仕えるようになった。そして、秀吉のブレーンとなって、大名との交渉や財政問題などの相談に応じていたらしい。行長ははじめ弥九郎と名乗り、才智にあふれ肝も据わり体格に恵まれた若者であったという。そこを見込まれたのであろう、備前岡山の商人の養子に出されて油屋弥九郎と称した。弥九郎は備前の国主宇喜多直家にも見込まれて、やがて直家に仕えるようになった。
天正のはじめ、織田信長の部将であった羽柴秀吉の中国攻めが始まり、当時、毛利方であった宇喜多直家は備前・播磨の国境で秀吉軍と戦闘を繰り返すようになった。やがて、信長への帰服を考えるようになった直家は、その使者として弥九郎に白羽の矢を立て、交渉がうまくいけば武士に取り立てようと約束した。そして、見事に役目を果たすと、人質として秀吉のもとに送られた宇喜多八郎(秀家)の介添として秀吉のもとに赴いた。この弥九郎の活躍の背景には、すでに秀吉に仕えていた父隆佐の支援もあっただろうが、弥九郎自身の高い能力があったことは間違いない。
天正十年(1882)、直家が病没、秀家が宇喜多家の当主となった。弥九郎改め行長は宇喜多家の部将の一人として秀吉軍に従軍し、高松城攻めに参加、見事な武将ぶりを示した。ほどなく本能寺の変が起こり、つづく山アの合戦で光秀を破った羽柴秀吉が天下取りレースのトップに躍り出た。このころ、弥九郎の才能に着目した秀吉の直臣に取り立てられ、出世階段への第一歩を踏み出した。一方、父の隆佐とともにキリシタンとなり、アゴスチィノ(ドン・アウグスチンとも)の洗礼名を有した。
天正十三年、秀吉が紀州根来・雑賀攻めの陣を起こすと、行長は船奉行として水軍を指揮し、熊野水軍を率いる九鬼嘉隆とともに出陣、紀伊奥郡の平定に功があった。戦後、従五位下、摂津守に叙任され、一万石を加増された。つづいて翌十四年、播磨国室津に所領を与えられて瀬戸内海航海権を掌握した。そして翌年の九州攻めに際しては、黒田孝高と小早川隆景の陣所に出張して軍議を行い、戦いが開始されると水軍を率いて出陣、戦後は博多の町の再興に活躍して博多商人たちと交流を深めた。同年、肥後一国を秀吉から与えられていた佐々成政が統治に失敗して国人一揆を引き起こすと加藤清正と協力して一揆軍の鎮圧につとめた。のちに、成政が一揆の責めを負って自害すると、肥後の北半分は加藤清正、南半分は小西行長に与えられた。かくして、小西行長は肥後半国二十四万石を治める大名に出世したのであった。
行長の興亡
行長は宇土城を居城として新領の経営にあたり、天正十七年、宇土城の修築普請の夫役を拒否した志岐・天草らの天草衆を討伐し、平定後に天草も所領に加えられた。こうして天草水軍も支配下においた行長は、五島・平戸の海賊商人(倭寇)の取締を命じられ、九州西海岸の制海権を掌握した。この行長の異例の出世には、朝鮮出兵を企図する秀吉の意向がおおいに働いていたことであろう。
文禄元年(1592)、羽柴秀吉は肥前名護屋城を本営として朝鮮出兵を開始した。九州西海岸を制する行長は代一軍の将に任じられ、対馬の宗・松浦・有馬・木村・五島など二万の大軍を率いて釜山に上陸、三か月後には平壌に迫り、救援の明軍を撃破して平壌を占領することに成功した。ほどなく明軍より講和が持ち上がり、行長は石田三成らと明使をともなって名護屋城の秀吉のもとに参じた。しかし、明側の講和条件に怒った秀吉によって講和はならず、慶長二年(1597)ふたたび朝鮮出兵となった。行長はふたたび先鋒となって渡海、加藤清正とともに南原・尉山へと転戦した。一連の合戦において行長と清正は先陣を争い、ついには犬猿の仲となってしまった。それが、のちの関が原の合戦で、行長は石田三成に、清正は徳川家康に属する遠因ともなった。慶長三年八月、秀吉が病没すると、三成とともに講和交渉にあたり、日本軍の撤退につとめ、島津義弘らととも最後まで戦った。
秀吉の死後、徳川家康と石田三成とが対立を深め、加えて秀吉子飼いの大名たちが三成派と家康派に分裂、事態は関が原の合戦へと動いていった。慶長五年(1600)、家康の上杉討伐を引き金として関が原の戦いが起こった。家康の東軍には加藤清正・福島正則・浅野幸長らが味方したこともあって、行長は三成の誘いをいれて西軍に味方した。決戦を翌日に控えた九月十四日、行長は軍議において夜襲を主張した。ところが義を重んじる三成は賛同せず、東西両軍は関が原で決戦を行い三成方西軍の大敗北となった。
戦いを前にした行長は、「斯かる臆病者とは知らず、三成に頼まれ、一味して犬死せん口惜しさよ、今に於ては是非なし、是というも行長が、人を知らざる故ならば、恨むる様もなし(後略)」と語って、最後の酒盛りを催したという。
・写真 :
小早川秀秋が陣を布いた松尾山から関が原を見る
小西家断絶
決戦が開始されると、行長の指揮する小西勢は宇喜多・大谷・石田らとともに奮戦を続けたが、小早川秀秋が東軍に寝返ったことで西軍は壊滅、行長は伊吹山中に敗走した。そして、村人に発見されると自首して出て、石田三成らとともに京都六条河原で処刑された。享年四十四歳であったという。
行長は村人に発見されたとき、家康のもとに連れて行って褒美を貰えと言ったが、村人は逃げるようにすすめた。
そこで、行長は「自分はキリシタンでもあり自殺はできないのだ」と答えて、村人とともに東軍の陣所に出頭したと
伝えられている。そして、最期にのぞんでも泰然自若として恐れる風もなく、見るものはみな敬服したという。
行長には男子があったらしいが、ともに処刑されて小西家は断絶、滅亡となった。行長の場合、商人から武将に
転じたこともあって、軟弱な文治派と見られがちだが、なかなかどうして乱世を生きたひとかどの
戦国武将であったといえよう。
【参考資料:豊臣秀吉軍団100人の武将(別冊歴史読本)・戦国武将争乱(臨時増刊歴史と旅) など】
■参考略系図
・『古代氏族系譜集成』に記載された「小西行長系図」をベースとして作成。
季治までは他の内藤氏系図とほぼ共通しているが、季継以降の部分は混沌としてもので、
とくに、丹波守護代として八木城に拠った内藤氏に関する部分、
松永氏から入った宗勝の位置づけなど、相当に検討を要する内容である。
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
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