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香月氏
五つ星/三本杉*
(香月君の子孫)
*大内氏から唐菱の使用を許されたという。


 豊前国八幡には、到津荘、小倉荘、麻生荘、山鹿荘、上津役郷、野面荘、香月荘などの荘園があった。そして、平家滅亡した後、豊前国のある北九州には東国御家人が新たな領主として下ってきた。山鹿荘には宇都宮氏一族が入部して山鹿氏を名乗り、その一族から麻生荘、野面荘、上津役郷を領した麻生氏が分かれでたが、のちに山鹿氏領も含めて麻生氏が治めるようになり豊前の有力領主に成長する。一方、東国御家人ばかりではなく在地の領主もおり、そのなかの一人が香月荘を治める香月氏であった。
 香月氏は勝木とも書かれて、その祖は小狭田彦といわれ、日本武尊の熊襲退治に功があって香月君の号を許されたという。ここらへんのところは伝説的というしかないが、小狭田彦四十二世の孫という香月秀則は香月畑城に拠り、平家に味方した山鹿秀遠の伯父にあたる人物といわれている。秀則は山鹿秀遠、子の則宗らとともに平家に味方して一時所領を失った。その後、則宗は梶原景時に従って関東に奉公して所領を回復した。ところが、「承久の乱」において宮方に味方したためふたたび所領没収の憂き目となった。則宗の子則定が舞の名手であることを認められ、所領を返還される幸運にめぐりあった。
 南北朝の内乱に際して香月則道は、武家方の少弐・大友氏に加担したが、その後菊池氏に従うなど、その去就は定まらなかった。その後、九州に制西将軍宮懐良親王が下向してきた。このころ、則道は男子が無かったため、懐良親王に御供してきた勅使河原某の子を娘の婿に迎えて則村と名乗らせた。ところが、その後、男子則次が生まれたことで香月氏は家督相続争いが起った。
 則村は市瀬城に拠り、則次は香月氏代々の居城である畑城に拠った。争いは繰り返されたが、次第に則次の頽勢となり、ついに則次は大内義弘を頼って周防に逃れ、畑城香月氏は没落となった。一方、争いに勝利した則村は、のちに麻生氏から室を迎え、子孫は市瀬麻生氏を名乗った。
 周防の大内氏を頼った則次の子孫は、代々大内氏に仕えたが、則次から五代の孫興則に至って、大内義興の支援を得て畑城に復帰し、香月氏の再興を成し遂げ、以後、子孫は畑城主として続いて戦国時代に至った。
 天正十五年(1587)、豊臣秀吉の九州征伐があり、戦後、豊前は小早川隆景に与えられた。このとき、香月孝清は本領を逐われ植木に蟄居した。ここに畑城主香月氏は消滅し、江戸期に至って福岡藩の大庄屋となり、貸方・酒造業を営んだという。また、江戸時代中期の医師として有名な香月牛山が知られるが、牛山は最後の畑城主香月孝清の五代の孫といわれる。牛山の墓は小倉北区清水の円応寺に残っている。

主な参考文献・北九州市史/姓氏家系大辞典/福岡県大事典 など】


■参考略系図
・『北九州市史』掲載の系図を底本に作成。  
  


●姓氏家系大辞典の記事から書き起した系図

小狭田彦……………香月┬秀則─則宗─則定………則道┬則村─義則
           │             │
           └則茂─弁長        └則次……弘孝……興則─則秀─則貞




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