生駒氏
波切り車
(藤原氏北家流後裔) |
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生駒氏は、大和国平群郡生駒の出身で、本姓藤原氏といわれている。すなわち、藤原房前の後裔良房のときに至り大和国生駒邑に住み、以来、家広が尾張国へ移り住む際に、その邑の名を称して生駒姓を名乗るようになったという。
家広の娘は土田秀久へ嫁ぎ、政久をもうけた。家広の男・豊政には蔵人家宗というのがあったが、政久を養子に迎えて親重と
名乗らせて生駒家を継がせている。親重の娘は織田信秀に嫁ぎ、織田信長を生んでいる。こうして生駒家は織田家と、
互いに争うことなく同盟を確立する。
天文十八年(1549)織田信秀が没し、家督を継いだ信長は対抗勢力と抗争を繰り返しながら着実に尾張統一を推し進めていった。そして、
生駒因幡守家宗の娘が信長の後妻正室として嫁いだことことで両家の関係は強力になった。しかし、美濃攻めが
酣となった永禄九年(1566)ごろ、信長は生駒家へも従属をせまってきた。
そのころ、生駒家の当主は親重の子親正となっていた。生駒家譜には「永禄九年織田右府、親正の名を聞き、豊太閣を遣わして
致招せしむ。親正太閣とともに往きて、右府に謁す。右府大に喜び、領地若干を賜ふ。是より始めて織田氏に属す」とある。
親正が秀吉との関係を深くするのは、元亀元年(1570)の越前金ケ崎城における殿軍戦のときからである。このとき、信長は麾下のうち五人の勇士をとくに選んで秀吉に付属させているが、その五人に親正も含められていたからである。
その後は秀吉に従って各地に戦い、天正十三年には近江国高島郡において二万三千五百石を与えられている。のち、さらに転封.加増され、石高は六万石、讃岐国丸亀城主にまでなっている。また、堀尾吉晴・中村一氏とともに「三中老」のひとりに数えられた。
関ヶ原の合戦のとき、親正は西軍に属していたが、子の一正が東軍に属していたことで家は安泰であった。一正は讃岐十七万三千余石の大名となり、慶長八年高松城において没した。その後、孫高俊の代に「生駒騒動」と呼ばれる事件があり、讃岐国は取り上げられ出羽国由利郡へ配流となった。
………
写真:生駒親正像
(東京大学史料編纂所データベースから)
■参考略系図
・『生駒系譜』と『古代氏族系譜集成』に記載された「土田・生駒略系」などをベースとして作成。
土田氏の祖にあたる建部源八郎を佐々木六角山内氏の後裔とするのは後世の仮冒とされている。
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