堀田氏
木瓜(石餅に竪木瓜)
(紀姓) |
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『寛政重修諸家譜』では紀氏として堀田氏をあげ、正重からはじまる系図を載せているが、正重の注記に「弥三郎、尾張守、堀田を称す。修理大夫之盛が男。尾張愛智郡津嶋に住す」とあり、正重の父は之盛であったと記されている。
もっとも『姓氏家系大辞典』では「堀田芳賀系図」を引いて、正重の父を元盛としており、そのあたりどちらが正確かは不明である。之盛(元盛)の二代前の之高のころ尾張国中島郡堀田村に住んで、はじめて堀田氏を称したという所伝もある。
正重の子正純は、尾張守護斯波氏に仕え、尾張国中嶋郡北島・有堀・丸淵・甲山などを領し、永正七年(1510)に没したという。正純の子が正道で、かれは織田信秀および信長に仕え、本能寺の変後は秀吉に仕えた。天正十一年(1583)には、尾張国中嶋郡において二千四百石余の所領を与えられたという。
その子が正貞で、正貞には何人かの男子がおり、その長男が盛重である。かれは『寛政重修諸家譜』では正高とされているが、法名の道空で知られる人物である。秀吉に仕え、馬廻衆となり一万石を与えられ、関ヶ原の戦いでは西軍に加わり、戦後、秀頼に仕えてやはり一万石を領した。大坂城七手組の一人で、大坂夏の陣のときに自刃している。
盛重(正高)の弟のうち、家督を継いだのが正秀で、かれは前田利家に属しており、その子正吉ははじめ小早川秀秋、のち家康に仕え、この系統が近世、下総佐倉城主となって存続した。
■参考略系図
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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