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山田氏
不詳
(紀姓)


 戦国時代における伯耆国人衆の一人である紀姓山田氏は、久米郡北条郷を領し堤城に拠って伯耆守護山名氏に属していた。応仁の乱ののち山名氏が衰退の色を見せるようになると、南条・小鴨・行松らの国人衆が独自に勢力を伸ばしはじめ、堤城主山田高直(時直とも)もその一人であった。「室町幕府奉行衆下知状」には大永二年(1522)三月に山田弥三郎左衛門尉が山田別宮に強行入部したことが記されている。弥三郎左衛門尉を堤城主とする確かな史料はないが、堤城主山田氏の一族と思われる。
 数少ない伯耆国の史書のひとつとして知られる『伯耆民談記』には、承平五年(935)に長田山城入道が北条郷山田別宮に入部したのを山田氏の始まりとしている。その後、弘安六年(1283)に紀秀員なる人物が山田別宮に焚鐘を納めたことが記録に残っている。また、『石清水八幡宮文書』には文永十一年(1274)六月に石清水八幡宮所司と紀秀真との間に争論があった事が記されている。紀秀員と紀秀員とは同一人物であったかもしれない。これらの人物が、堤城主山田氏の先祖とすることはできないが、山田氏が古くから北条郷と関係をもつ武士であったとみて間違いなさそうだ。

伯耆の戦乱

 戦国時代、出雲月山冨田城主である尼子経久の勢力が伯耆に及ぶようになり、それに羽衣石城主の南条豊前守宗勝入道、尾高泉山城主の行松入道らが抵抗姿勢を示した。大永四年(1524)五月、経久自らが大将となって伯耆侵攻を開始した。尼子軍の鋭鋒の前に、行松入道の尾高城、小鴨掃部助の岩倉城、山名久氏の泊河口城、山名澄之の倉吉打吹城、南条宗勝の羽衣石城、そして山田高直の拠る北条堤城も陥落、諸将は因幡・但馬の山名氏を頼って流浪した。
 尼子主力軍の本格的な伯耆進攻は大永四年(1524)五月である。経久自ら将となり西伯耆から侵入し、たちまちのうちに行松入道の尾高城、小鴨掃部助の岩倉城、山田重直の北条堤の城、山名久氏の泊河口城、山名澄之の倉吉打吹城、南条宗勝の羽衣石城など伯耆の諸城を攻略した。諸将は城を追われて因幡・但馬の山名氏を頼って流浪したといわれる。 山名氏の下にのがれた山田高直は「長田姓」に改め、『山田氏覚書』によれば大永五年(1525)に重直が生まれたという。成長した重直は長田又五郎と名乗って但馬山名氏に仕え、のちに平三左衛門尉と改めている。そして、永禄三年(1560)の私部表合戦、翌四年の若桜表合戦などに軍功をあらわして因幡国気多郡などに所領を与えられた。
 そのころ尼子氏を圧迫する勢力に成長した毛利氏と通じるようになった重直は、ほどなく毛利氏の支援を受けて 永禄五年に堤城を奪還した。堤城に復帰した重直は山田姓に復し、羽衣石城主南条宗勝に属するようになった。 永禄七年、毛利氏と結ぶ因幡鳥取城主の武田高信が守護山名豊数が拠る天神山城を攻撃、敗れた豊数は 鹿野城に奔った。毛利氏の命を受けた重信は、南条氏とともに出陣、武田氏を支援して鹿野城攻撃に参加した。 この戦いで因幡山名氏は没落し、毛利と結ぶ武田高信が因幡の最大勢力になった。 以後も山田氏は南条氏の麾下に属し、天正七年(1579)五月、中津・小鹿の山堺争論について、 南条元続が下した裁許状の副状に、重直の署名があり南条の重臣の一人としであったことが知られる。
 やがて、南条元続は織田氏と内通するようになったことから、毛利氏に近い重直は元続と対立するようになった。 九月、元続が堤城を攻撃、危ういところで重直は嫡男の山田信直とともに鹿野城に逃れた。以後、南条氏と訣別した山田氏は吉川元春に属し、天正八年八月、元春の羽衣石城攻めに従軍した。八月十三日の合戦に勝利を収めた吉川元春は、高野宮城に山田直重、城山の城に岡本大蔵、松崎城に小森和泉守を配置して羽衣石城に対抗させたのである。

毛利氏から吉川氏へ

 天正十年六月二日、明智光秀の謀反によって信長が討たれた。この本能寺の変のことは伯耆にも達し、羽衣石城内は動揺・混乱したようだ。『陰徳太平記』によれば、南条の家臣進藤勘介・秋里目らが旧知の山田重直に内通したと記されている。そして、九月、内通する南条の家臣の手引きによって、山田重直・信直父子が大手口から攻めかかった。ついに南条方は崩れ、続はわずか郎党四、五人を連れて播州(一説には京都)に走った。こうして重直の活躍で羽衣石城は陥落し、東伯耆は毛利方の支配するところとなったのである。
 重直は毛利氏に従ってのち数々の功をあげ、嫡男の信直が急死するという悲運にも見舞われた。ところが、信長のあとを継いだ豊臣秀吉と毛利氏が和睦したことで、南条氏が羽衣石城に復活した。さらに「京芸和睦」で堤城のある久米郡は南条領と確定したため、重直は先祖伝来の地を離れて西伯耆の会見郡小鷹城に移ることを余儀なくされた。戦乱のなかで嫡男を失い、すでに老境の域にあった重直にとっては無常の思いがさしたのではなかろうか。小鷹城に移ってのち家督を山田次郎五郎に譲り、『伯耆民談記』によれば天正二十年(1592=文禄元年)に没したという。
 慶長五年(1600)、関が原の戦いが起こり、西軍の総帥に祭り上げられた毛利輝元は防長二州に減封されてしまった。その結果、山田氏は吉川氏の家臣となり防州岩国の地へと移住していった。『山田系譜』によれば、山田氏の嫡流は重直の嫡男の信直が継承したが嗣子なく早世して断絶、二男盛直の系が吉川氏に仕えて近世に生き残った。盛直の山田氏は、北条堤城主であった由緒から吉川家中では譜代衆の上座に位置づけられたという。また、子孫は家に伝来する古文書を吉川家に献上し、『山田氏覚書』、『山田家古文書』として今に伝来する文書群は、中世文書・史料の乏しい因伯戦国史をうかがう貴重な史料となっている。

参考資料:東郷町史・北条町史・鳥取県史 ほか】



■参考略系図
・詳細系図不詳、ご存知の方ご教示ください。



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