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土方氏
三つ巴
(清和源氏頼親流)


 土方氏は清和源氏頼親流といわれているが、太田亮氏の『姓氏家系代辞典』に所収されている「源家隈部系図」によれば、宇野親治の流れで、季治が、土方五良右衛門尉を名乗ったのがはじめであるとされている。また、『藩翰譜』では「河内守源雄久は、大和守頼親七代の孫、土方太郎秀治が後裔、彦三郎某の男なり」としている。
 なお、『寛政重修諸家譜』では、秀治を季治とし、雄久の父彦三郎の実名を信治とし、系図としてはこの信治からはじめている。いずれにしても季治(秀治)が大和国土方村に住したことにはじまるとされる。しかし、土方村が現在の奈良県のどこにあったのかは知りえない。
 季治十三世の孫信治は信長に仕え。弘治元年の美濃合戦に土岐一族と戦って討死したことが、戦国に登場する土方氏の最初である。信治の子が雄久で、天文二十二年(1553)尾張名古屋に生まれ、長じて織田信雄に仕え、伊賀に出戦するなどの功をたてている。天正十一年(1583)、信雄が北伊勢の地を得たとき、雄久に伊勢国菰野の地を与えている。
 なお、『寛政重修諸家譜』によれば、天正十二年の小牧・長久手の戦いにおいて秀吉方との講和をまとめたのが雄久であった。しかも有利なうちに交渉をまとめて、尾張・伊勢の地を主君信雄のために確保した。その功労を大として、犬山城四万五千石を与えられている。ところが、天正十八年に信雄が秀吉の転封命令を拒絶して没落し、雄久は直接秀吉に仕えることになった。
 秀吉の死後、雄久は反徳川行動を策して、他家お預けの身となった。関ヶ原の合戦のときは、家康への信用回復の好機として、雄久は加賀前田家を説得する使者となり活躍した。その功で家康から加賀の内で一万石を与えられたが、のち子の雄氏が伊勢の薦野で一万二千石を与えられ、再び薦野の地を領することとなった。以後、代々薦野を領して明治維新を迎えている。



■参考略系図


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