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蜂須賀氏
卍/抱き柏*
(清和源氏足利氏流斯波氏族?)
*本来の紋だといい、卍紋の使用は小六正勝以降という。


 蜂須賀は清和源氏足利氏の一族、斯波氏の後裔正昭が、尾張国蜂須賀郷を領し、蜂須賀を称するようになったのがはじめという。しかし、この所伝は後年大名になった蜂須賀氏の手によって作り出されたもので、そのままに信じることはできない。
 周知のように、蜂須賀氏は小六正勝に至り、秀吉に仕えてはじめて一般的にも知られるようになったわけで、それ以前は濃尾国境に近い尾張の一土豪に過ぎなかった。系図上で、さきの正昭云々は問題外として、比較的信憑性のあるのは、『寛政重修諸家譜』の正利からあるいは『系図纂要』の掲げる正永あたりからであろう。正利・正勝・家政ともに通称を小六としている。
 『藩翰譜』によれば、正利の代に蜂須賀百貫の地を知行していたといい、蜂須賀正利は姓を有し、しかも在名を名乗る土豪であったことになる。正利は、犬山の織田氏、さらに岩倉の織田氏などに仕え、美濃にも比較的近いという地理的条件から斎藤道三にも仕えていたという所伝ふがある。
 おそらく平時は農業経営に携わり、いざ合戦というときだけ鎧を着け、馬にまたがり何人かの被官を引き連れて参陣したものであろう。百貫という貫高がもし正しければ、正利は被官を十人ぐらい引き連れて陣に加わったことになる。

近世大名への道

 正利の子が正勝で、秀吉の墨俣城の築城に活躍する。諸書に信長の譜代の家臣たち、すなわち、佐久間信盛や柴田勝家らが失敗した後を受けて秀吉が築城を引き受けたということになっている。敵を眼前にしての築城は難工事だったらしい。そればかりではなく、低湿地帯に城を築くということは従来ほとんど経験のないことで、もはや尋常の手段では工事を完遂できないところにきていた。
 秀吉は美濃と尾張の緩衝地帯にあって、斎藤氏にも織田氏にも服属していないような土豪、あるいは土豪くずれの野武士たちを寄せ集め、斎藤側の攻撃を防がせながら残る人数で工事を進め、わずかの日月で完成させたという。そのときの野武士の頭領が蜂須賀小六正勝であった。そして、これが史上有名な秀吉の「墨俣の一夜城」と称されるものである。
 正勝が野武士千二百人を集めたというその数字には誇張があるとしても、その三分の一で斎藤勢の攻撃を防ぎ、残る三分の二で堀を掘れば、伝説のように一夜で城を作ることも不可能ではなかったろう。
 以来、正勝は信長に属することになった。秀吉麾下になったのは、元亀元年(1570)、信長が朝倉攻めで退路を絶たれたとき秀吉が殿軍をしたときであるという。以後、秀吉に従って軍功を挙げ、四国征伐ののち、子家政が阿波一国を与えられている。
 家政も秀吉の小田原征伐や文禄の役・慶長の役に従い、徳島城主として君臨した。関ヶ原の合戦に際しては、はじめ石田三成の挙兵に応じた。しかし、家政の子至鎮は小笠原秀政の娘を家康の養女という名目で妻に迎えていた関係から東軍に属し、野上に陣して南宮山に備えていた。結果、蜂須賀氏は徳川大名として生き残ることができた。
 その後、大阪の陣でも戦功を挙げ、淡路をも領し、本国阿波と併せて二十五万石の大名に飛躍した。以後、蜂須賀氏は代々封を次ぎ、明治維新を迎えたのである。


■参考略系図
・『古代氏族系譜集成』に収録された『蜂須賀氏系図』を底本として作成した。しかし、正確な出自に関しては不詳としかいいようがないようだ。     

Ver.1 系図


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