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羽床氏
●三階松
●藤原姓綾氏嫡流
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羽床氏は讃岐藤家の一族で、新居・香西・福家氏らとは同族関係になる。讃岐藤家とは、保安元年(1120)に讃岐の国司となった藤原家成が、綾大領貞宣の娘との間にもうけた章隆を祖とする武士団をいうあ。
羽床氏が羽床を名乗ったのは、仁平年間(1151〜53)のころといわれ、章隆の子周防守資高が下羽床に居を構え地名をとってはじめて羽床を称したのだという。羽床は「はゆか」とよび、資高から数代のちの政成は楠木正成の千早城攻めに一番乗りの功をあげた。その後の南北朝の内乱に際して政成の子政長は、一族みな北朝に属したなかで、ひとり南朝方に味方した。その後、幕府管領に就き讃岐守護職もつとめた細川氏に従ったようだ。
室町時代における羽床氏の動向は詳らかではないが、十五世紀末期に成立したという『見聞諸家紋』には、大野・香西・新居・福家の讃岐藤家諸氏とともに羽床氏の幕紋も収録されており、管領細川氏に従って応仁の乱に出陣したことが知られる。また、讃岐藤家諸氏はいずれも「三階松」を用いており、松が一族共通の紋であったことも分かる。
戦国末期、天正時代(1573〜)の当主は資載で、中讃諸将の盟主となった伊豆守である。資載は同族香西氏を幼少の身で継いだ佳清を援けて、その陣代となり香西氏のために尽くした。そして、娘を佳清に嫁がせたが、一年たらずで離縁されたことから、互いに反目、同族争いとなり次第に落ち目となっていった。そして、互いに刃を向けあううちに、土佐の長宗我部元親の讃岐侵攻に遭遇することになったのである。
羽床氏と戦国時代
天正六年(1578)夏、長宗我部元親の大軍は讃岐に侵攻してきた。土佐軍を迎え撃った讃岐勢は、藤目城の斎藤下総守、本篠城の財田和泉守、天霧城の香川之景(信景)、藤尾城の香西佳清、天滝城の安富盛定、十河城の十河存保らで、勇猛でなる長宗我部軍も一朝一夕には落とすことができなかった。
長宗我部氏の中讃侵攻に対して、西長尾城主長尾大隅守は、土器川に布陣して土佐軍を迎かえ撃った。大隅守は片岡伊賀守通高とともに、よく戦ったが、土佐の大軍のまえに大敗を喫した。長尾氏の敗戦を知った羽床伊豆守は、香西氏とたもとを分かっていたこともあって兵力は少なかったが、土器川を越えて高篠に布陣すると草むらに隠れて土佐軍を待ち受けた。これとは知らない長宗我部軍は進撃を開始し、先鋒の伊予軍がきたとき、羽床軍は一斉に飛び出して伊予軍を散々に打ち破った。
これに対して、元親みずからが指揮して羽床軍にあたったため、羽床軍はたちまちにして大敗となった。伊豆守は自刃を決意したが、残兵をまとめて羽床城に引き上げた。元親もそれ以上の追撃はせず、後日、香川信景を羽床城に遣わして降伏をすすめた。すでに戦意を喪失していた伊豆守は。子を人質として差し出し、長宗我部氏の軍門に降った。ついで長尾氏、さらに滝宮・新名氏らも降伏したため、中讃地方は長宗我部氏の収めるところとなった。
元親は讃岐攻略に際して、攻撃または和親を巧妙に使い分け、陥れた讃岐の諸将を自軍に組み入れるなどのあらゆる手段を駆使して、天正十二年(1584)夏に至って讃岐一国を平定したのであった。狭い讃岐攻略に六年かかったということは、いかに讃岐の諸城が堅固な構えだったかということを示したものといえよう。
伊豆守の死後、次男資吉が羽床氏の家督を継いだ。天正十四(1586)、資吉は秀吉の命により、長宗我部氏・十河氏・安富氏らとともに仙石秀久に属して九州に出陣した。そして、豊後戸次川において島津軍と戦い討死した。のちに戸次川の戦いと呼ばれる合戦で、四国勢は長宗我部信親・十河存保らも戦死するという壊滅的敗北を喫した。資吉の戦死によって、羽床氏の嫡流はむなしく断絶した。・2006年4月3日
【参考資料:香川県史/綾南町史/讃岐人名辞書 ほか】
■参考略系図
・詳細系図は不詳、ご存知の方ご教示ください。
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