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阿佐氏
揚羽蝶
(称桓武平氏)


 寿永四年(文治元年=1185)の屋島の戦いで敗れた平氏は、幼帝安徳天皇をいただいて彦島に逃れ、北九州の水軍や山鹿・菊池・原田・松浦などの諸党を集めると、壇の浦で源氏に対して決戦をいどんだ。しかし、伊予の河野水軍や紀伊の熊野水軍が源氏勢に加わったため、戦いは平家方の敗北に終わった。平家の総帥宗盛や時忠らは捕えられ、安徳天皇は母の建礼門院とともに入水した。こうして、平家は滅亡したというのが歴史の常識となっている。
 ところが、日本各地には平家落人部落が多く残され、それぞれ平家の後裔を称している。その一つとして、有名なのが徳島県西部、吉野川の支流祖谷川にある祖谷渓の峡谷をなす剣山山麓に位置する祖谷の平家落人部落である。
 伝説によれば、平清盛の弟教盛は壇ノ浦敗戦後、安徳天皇を奉じて阿波国美馬郡祖谷山に入り、のちに阿佐庄に移住して阿佐氏を称したという。一方、祖谷地方に伝わる伝説によれば、平教盛の次男国盛が、安徳天皇を奉じ、手勢百余騎を率いて陸路東に逃れ、阿讃山脈を越えて吉野川をさかのぼり、山深い祖谷山の地に入ったという。
 これらの伝説が真実か否かの判断は難しいが、祖谷の阿佐家は国盛の直系の子孫と伝え、いまも「平家の赤旗」と呼ばれる大小二流の旗と系図、宝刀が所蔵されている。大小二流の「平家の赤旗」は、本陣用の大旗と戦場用の小旗で、それぞれ「八幡大菩薩」の文字が書かれ、小旗には平家の紋の「向かい蝶」が描かれている。
 さて、阿波に入った国盛は、大枝の名主喜多氏を討ってその屋敷に立てこもり、付近の住民を帰服させながら勢力を伸ばしていった。のちに阿佐に移り、承元二年(1208)に死去したという。そして、国盛の長男氏盛は阿佐氏を次男盛忠は久保氏をそれぞれ名乗って、子孫は阿波山岳武士に成長した。
 阿佐氏は南北朝時代、室町時代を生き抜き、戦国時代には金丸城主として「阿波国旗下幕紋控」に鈴江・守貞氏と並んで「揚羽蝶」紋を用いたことが記されている。『阿波国徴古雑抄』によれば、三好氏に属して活躍、細川氏と対立した三好氏を金丸城に匿ったこともあるという。
 江戸時代、蜂須賀氏が阿波の国主として入部してくると、二十石を給されて祖谷谷に続いた。現在、阿佐氏の住居は「平家屋敷」として観光スポットになっている。

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■参考略系図
『阿波国徴古雑抄』所収の阿佐氏系図より作成。系図に記された歴代の没年から判断すれば、掲載系図のように代数に闕が生じることになる。果たして、阿佐氏は所伝のように、平家の後裔なのであろうか?


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