政宗戦記
天正十二年(1584)、弱十八歳にして伊達家十七世の家督を継いだ政宗は、奥州全土を手中に収め、「奥州の覇者」として天下に覇を唱えんとした。しかし、政宗は、服従しない大名に対して果断なき攻撃の手を故加えたので、近隣諸大名の反発を買い、ついには、会津の葦名氏、常陸の佐竹氏を旗頭にする反伊達連合軍が組織され、大軍を相手に政宗は、苦戦を強いられることになる。
少ない兵力で大軍にあたることが戦略的に求められたことはいうまでもない。伊達軍団は、機動・陽動作戦を活用、兵力に優る連合軍に敢然と挑んでいった。
政宗は、天正十三年、伊達氏に反抗的な態度をとる小浜城主大内定綱を最初の攻撃目標とし、大内氏の城を次々と落して、大内定綱を会津に奔らせた。このとき、大内氏に味方し、政宗の逆鱗に触れた二本松城主畠山義継は、政宗の父輝宗に執り成しを依頼するために輝宗の居城宮森城を訪れた。しかし、政宗の態度は強硬で、ついに義継は輝宗を誘拐し二本松へ向け逃走。急報を受けた政宗は、義継一行を追撃し、高田原において父輝宗ともども義継を討ち果たした。時を移さず政宗は二本松城攻撃の軍を発した。しかし、幼主畠山国王丸以下の抵抗は激しく、政宗は二本松城を落すことを断念せざるをえなかった。
人取橋の合戦
天正十三年(1585)十一月十七日
伊達政宗 VS 反伊達連合軍
伊達軍が二本松城を攻める、の報に接した岩城・白川・石川などの近隣諸大名は、葦名氏・佐竹氏を旗頭に反伊達連合軍を結成、三万余の軍勢を催し、須賀川に集結した。二本松畠山氏救援が一応の目的だが、畠山氏滅亡後の政宗の南下を阻止する自衛のための決起であった。常陸の佐竹氏が中核となった意味もそこにあった。連合軍は、二本松城救援のために本宮方面へと向かった。
反伊達連合軍進発の報に接し政宗は、二本松城への押さえの兵を残し、全軍を挙げて本宮方面へと向かう。そして天正十三年十一月十七日、本宮南の観音堂山に陣を布いた。総勢四千人、別に伊達成実が千余人を率いて高倉近くの小山に陣した。連合軍は三隊に分かれて押し寄せ、陸羽街道上の人取橋周辺で衝突、激戦となった。このとき、偵察に出た鬼庭良直は攻撃目標にされて、七十三歳で討死にしている。
とくに人取橋付近は一大乱戦の場となった。本陣と成実陣との間が戦場と化したので、孤立した成実は死を覚悟して背面から敵陣に突入し、凄惨な戦闘となった。伊達軍は兵力的に劣勢であったが、高所を利用し連合軍の反撃をしのいだ。やがて、夕暮れとともにお戦いは中断され、決戦は翌日に持ち越された。
しかし、佐竹氏出陣の留守を狙って、関東の江戸氏や里見氏が策動したため、佐竹氏は常陸に帰国してしまった。合戦は両軍傷み分けという形で終結したが、政宗は連合軍の二本松救援という作戦意図を打破し、政宗恐るべしという畏怖の念を抱かせた伊達軍の戦略的勝利といえよう。
伊達軍の勝因には、二本松勢を釘付けにしたこと、成実軍が背後を突いたことで、連合軍は観音堂山の伊達本陣攻撃が成功しなかったことなどが挙げられる。この戦いは政宗生涯の戦いのうちでも激闘をもって聞こえ、以後、政宗の武名はあがり、反伊達同盟の結束は弱体化の一途をたどることになる。
摺上ケ原の戦い
天正十七年(1589)六月五日
伊達政宗 VS 葦名義広
永禄年間(1558〜70)の室町幕府の番付に東北の大名として、伊達・葦名の二家だけが記録されている。
摺上ケ原の戦いは、伊達政宗の弟小次郎の養子問題がその遠因とする説もあるが、両雄はいつかは力で対決するしかなかった。奥南への侵略者伊達氏に対し、"反伊達"の代表者たる葦名氏が、常陸の佐竹氏の後援によって伊達政宗の挑戦を受けてたったのは、いわば宿命であった。
両者はかねてより小競り合いを演じ、戦略工作を行ってもいた。そして、天正十七年(1589)六月五日、会津磐梯山麓の摺ケ原で伊達・葦名両雄は激突したのである。伊達二万三千騎、葦名一万六千騎と記録されている。
義広は須賀川に出陣していたが、猪苗代盛国の謀叛を聞き、会津に引き返してきた。須賀川から夜行軍で約50キロの道をやってきた葦名軍と、午後に安子ケ島(福島県郡山市)を発って約25キロ進み、猪苗代で休息していた伊達軍とでは疲労度が違った。葦名軍は善戦したが大崩れになって敗走、途中で日橋川を渡って逃れようとしたが、橋が落されて居たため、溺死する者も多く出た。
伊達軍は会津の黒川城付近まで田舎道を追撃し「士卒一人トシテ刃ニ血ヌラザル者ナシ」という大勝利で、討ち取った首級は二千五百を数えた。伊達氏の圧勝であった。
葦名軍の敗因として、前記のような義広の作戦・指揮の拙さもあったが、重臣間の対立、領内不統一、結束の乱れなどが指摘されている。
敗戦後、葦名義広は主城の黒川城を逃れて白河氏を頼り、のちに生家の佐竹氏に帰り、葦名氏は滅亡した。
■摺上原の合戦要図
葛西・大崎一揆
天正十九年(1591)六月
伊達政宗 VS 葛西・大崎遺臣
天正十八年、葛西・大崎氏領は小田原参陣の遅参をもって秀吉に没収されてしまった。そして、新しく豊臣家臣の木村吉清父子に与えられた。一揆はもともとこの新領主に対する葛西・大崎遺臣らの反抗によって始まったのである。一揆の原因として、新領主の暴政、太閤検地の強行などが挙げられるが、伊達政宗の扇動があったとされる。
天正十八年の秋に発生した一揆は、秀吉の命令によって出動した蒲生氏郷と伊達政宗によって鎮圧され、木村氏は救出された。
この蒲生・伊達の協同戦線において両雄間にトラブルが起こり、嫌疑を受けた政宗が秀吉に呼び出された時、金の磔柱を持参したのは有名である。
裁判の結果、政宗の嫌疑は解け、翌天正十九年春、その地へ移封の内示を受けた政宗は一揆軍に対して、徹底討伐の軍を起す。伊達家の陣触れは五月二十七日で、集結した軍勢は二万四千人と伝える。伊達軍が真っ先に攻めたのが、加美郡の笠原一党が籠る宮崎城で、時に六月二十日であった。宮崎城を屠った伊達軍は即時大崎原野を東進し、同月二十八日、葛西・大崎一揆軍最後の拠点である佐沼城を包囲した。
佐沼城は水城で、容易に攻め込めない堅城であった。しかし、伊達軍による連日の波状攻撃でさすがの堅城も落ち、城内の武士五百人、百姓ら二千余人が斬殺された。これが伊達政宗の「佐沼城のなで斬り」で、『成実記』に「城中ノ死者余リ多ク、人ニ人カサナリ土ノ色ハ何モ見エ申サズ候」と戦慄すべき描写をなしている。これは、さきの伊達政宗の扇動の証拠を消す意味もあって、かくのような皆殺しとなったとする説もある。
かくして、葛西・大崎氏旧領は伊達氏に帰属したのである。
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