鎧ヘッダ

 
家紋  伊達氏のおこり



 陸奥国伊達郡は、現在の福島県。福島市の東北部よりにある大郡である。伊達氏はこの「伊達郡」にちなんだ名字である。伊達氏の祖は、文治五年(1189)、源頼朝が奥州藤原氏追討軍を興した、いわゆる「文治奥州の役」に従軍、この役最大の激戦のあった伊達郡阿津賀志山の合戦に大功があって、戦後、頼朝より伊達郡を拝領、郡地頭となり、これを名字の地として伊達氏を称するに至ったものである。


もとはイダテ

 伊達郡の伊達も、伊達氏の伊達もダテとよまれている。しかし、これは本来イダテ、もしくはイダチが正しかったと考えられる。伊達郡の前にイダチ(因達)のような地名があり、神名にまたイダチ(伊太氏)神社がある。これらと同じ様な言い方としての伊達であろうことは、ほぼ疑いない。
 事実、氏名伊達は、古くはイダチと発音されていたのである。例えば、南北朝時代の延元四年(1339)「白川証古文書」に「いだてかもんのすけ」(伊達掃部助)とある。また、十七世紀政宗が欧使節に託してヨーロッパに送ったラテン語書簡にも、ローマ字でイダチと書かれている。仙台藩の故実にあっては、幕末までイダテだったとされている。


名字の地伊達郡

 伊達郡は、内郡陸奥と奥郡陸奥とを分ける要衝の地である。ここは、平安初期まで信夫郡のうちにあったが、信夫郡は、開拓された陸奥国南部を、石城国、石背国と二ケ国に分国したとき、石背国の最北端に位置し、伊達相当部は、さらにその東北端にあった。また、伊達氏の祖がこの地を名字の地とするようになる発端の「文治奥州の役」では、藤原氏側が、この伊達郡最北端の阿津賀志山に堅塁を築き、ここを最大の防御拠点とした。またここは、「国見駅」の所在地であり、さらに伊達大木戸と呼ばれる関門もあったから、当時においても、奥州にあって、南と北とを大きく境する第一関門の地であったことが知られる。
 この伊達郡での最大の激戦に、最大の功労者となり、そのままこの地の領主権を得たということは、長い目で見れば、後世奥州の覇者となる第一資格を賦与されたことでもあったのである。


常陸入道西念

 さて、この伊達郡初代領主になった伊達氏の太祖は、常陸入道念西朝宗という人であったということになっている。その子息の為宗・為重・資綱・為家らがそろって、阿津賀志山合戦に奮戦、大功を立てて、郡地頭職の拝領ということになったのである。
 もっとも、当時の記録『吾妻鏡』には、ただ「常陸入道念西」とだけあり、朝宗の名はない。朝宗は後世の名である。そのため、念西が誰かについての問題があり、この人は伊達系図に、二代宗村とされている人物に相当するのではないかとされるが、不明である。
 この遠祖とされる念西なる人物は、常陸入道と称されていることからも明らかなように、もともと常陸の住人である。さらにその長男の為宗が伊佐大進を称して、同じ常陸国のなかでも伊佐庄が、その本貫の地だったのである。そのため、奥州伊達郡、その他出雲・但馬・備中・駿河・上野・下野等にも所領を持っても、常陸伊佐庄は伊達氏の本領と目され、惣領家がこの地を伝領することになるが、南北朝期を経過するうちに所領を失い、伊達郡の伊達氏が、一族の惣領の座を占るようになっていく。


世系は藤原北家山蔭流

 さかのぼって、常陸入道念西の常陸における起こりであるが、『伊達氏系図』では、藤原北家のうちの山蔭中納言の裔、いわゆる山蔭流を以って世系を立てている。山蔭は平安初期九世紀後半の人、従三位中納言まですすんで、仁和四年(888)に亡くなっている。念西朝宗はその十代の後とされている。その子孫が常陸介となって下向、伊佐庄中村に住して、常陸介・常陸入道・伊佐庄司・中村氏などと称されたというが、中村は下野芳賀郡、伊達はここから伊佐に移ったともいう。
 十代間の世系の中で、常陸介になり、伊佐庄に住んだとされているのは、第六代の実宗という人である。おそらくこのあたりから、伊佐常陸介家が成立するのであるが、それは平安後期、十一世紀の終わりごろであろう。朝宗の父、光隆の妻は、六条判官源為義の女で、朝宗はその子というから、そうであれば為義の子義朝は朝宗の叔父ということになり、頼朝は従兄弟ということになる。朝宗の子の為宗は皇后宮大進となったため、この惣領の妹も大進局と呼ばれ、義朝の子の頼朝の側室となっているから、源氏の嫡流とも浅からぬ縁にあった名家だったのである。
 伊達方面では、すでに平泉藤原氏のもとで、郡司が庄司を兼ねて地頭化していく傾向が広く認められる。鎌倉幕府はこれを平泉から鎌倉に再編し、鎌倉派遣の口入地頭*を政治領主とする郡地頭体制に組み替える政策をとったのであった。伊達氏の場合もあおの一つだったと考えられる。
*鎌倉幕府は全国平定にともなって、各地に関東御家人を派遣して、守護・地頭に任命した。しかし、地頭の中には、土地本来の地付領主であったものが、そのまま下級領主として安堵され、派遣地頭がその上の政治領主として配される場合が多かった。口入地頭は、その場合、幕府お声がかりで配された上級の派遣地頭のことを指す。


伊達氏の歴史への登場

 鎌倉時代の伊達氏の事蹟はほとんど不明である。断片的に各地での所領・所職に関する記事をとどめるだけである。それが建武中興・南北朝に至って、俄然、歴史の本舞台に登場、以後、東北中世史は戦国時代に至るまで、伊達氏を主軸に展開することになる。
 とはいえ、伊達氏ははじめのうちはワキだったりツレだったりする。主役ではなかったのである。それが、室町中期以降、シテすなわち主役になってくる。これは中世日本史に地方の時代を開いていく上での草分けの歴史の一つである。奉行・管領・探題、これらはすべて上からの支配権である。伊達は平の地頭から、守護や探題のような一国公権にまでのし上がっていく。
 そのきっかけとなったのは、鎌倉幕府が滅亡し建武の中興がなり、新政権は北畠顕家を陸奥守に任じ、義良親王を奉じて多賀国府に下向、大地方政治を東北に興さしめたことである。伊達七世行朝は、こうして成立した「奥州幕府」における最高議政官たる式評定衆の一人に指名される。武将としては、かれのほかには、白河結城宗広・親朝父子があるきりである。いったい、当時の奥羽における政治的武将の家柄といえば、旧奥州惣奉行の名家ある葛西留守両家である。それらを抑え、他の同格の地頭・大名すべてを排して、結城と伊達の二氏が「同僚中の第一人者」の地位を得ているところに、中興期における両氏の門地がうかがわれるのである。
 その後、足利尊氏の叛により中興政府が瓦解、陸奥国府もまた足利党に占拠される事態が起こる。延元二年(1337)正月、国府機能はあげて、伊達郡霊山城に移る。ここは伊達行朝の本拠とするところであった。すなわち、伊達氏の居城は、第二の陸奥国府城となるのである。しかもここは、難を避けた亡命政府の匿い先に終わらなかった。亡命を受け入れた八か月後には、足利の天下となった都を奪回すべく奥州軍をここから送り出す大役を立派にはたすのである。
 こうして、歴史に登場、名を記した伊達氏は、領土を拡大して、大名化の傾向をおしすすめていくことになる。いいかえれば、下からの地方史の代表的存在の一つ、それが伊達氏であった。





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