赤松氏



家紋アイコン 別所戦記
戦史に残る干殺し作戦に潰えさる



 別所氏は赤松氏の一族で、播磨印南郡別所を本拠とした。赤松円心の甥敦光のとき初めて別庄を称したといわれ、『太平記』にもその名が見えている。嘉吉の乱で赤松満祐が阪本城に籠城すると、別所氏は一族で馳せ参じ、満祐の長男教康に従って大手に当たる須磨明石口を守った。
 応仁の乱後、一族から別所則治が出て、赤松政則から美嚢郡三木城を与えられて、明石・印南・美嚢の三郡に勢力を振るった。明応八年(1499)に「播州東西取合合戦」と呼ばれる内乱が勃発するが、則治は浦上宗国と結んで西播に威を振るう浦上村宗と対抗、一時は播磨東八郡の主として東播一帯に勢力を拡大した。しかし、永正十年(1513)に則治が三木城内にて病死すると、別所氏の地位は衰え、浦上氏が播磨一国に猛威を振るうことになった。
 しかし、なお東播の各土豪は浦上氏に抵抗したので、亨禄元年(1528)に播磨の東西分裂を憂えた将軍義晴は、 別所大蔵大輔・小寺藤兵衛尉・有田源次郎・櫛橋豊後守四名連名へ宛てて、東西の和与を勧告しているが、 この御内書を見ても、東播が別所・小寺らの割拠状態に陥っていたことが想像される。その後は、細川・浦上の 連合軍に大敗し、一時は城を追われて流浪の身となった。さらに、天文から弘治にかけては、三好長慶が 摂津滝山城を築き松永久秀を居らしめ、東播地方はしばしば三好氏の馬蹄に蹴散らされる有様で、 別所氏には受難の時代が続いたのである。

三木城址本丸址 /本丸址の長治辞世の碑 /長治夫妻の供養塔


東播磨の大名

 永禄十一年(1568)、織田信長の入京に際して、別所一族は別所孫右衛門重棟を派兵し、足利将軍義昭から感状を与えられた。このように永禄末頃から再び別所氏が台頭いてきたので、信長ははじめ中国攻略の先鋒に別所氏、とくに長治を充てることを考えていたという。
 ところが、羽柴秀吉が播磨に入国した天正六年(1578)三月、加古川城で長治の老臣らと軍議を凝らしたとき、秀吉が総帥となり、長治はその下に置かれる予定を知って、別所氏は怒って信長に反旗を翻すに至ったと伝えられる。一説には長治の叔父、山城守賀相なる人物が、いずれは別所氏を滅ぼさんという信長の真意を察して長治に離反を勧めたともいう。
 こうして長治は、岳父にあたる丹波八上城主波多野秀治と結んで、反織田の兵を挙げ、織田政権の中国地方進出に重大な脅威となったのである。
 当初、三木城は信長の嫡男信忠が当たり、秀吉は山中鹿介らの籠城する播磨上月城の救援に向かったが、三木城は前面に美嚢川、背後には裏六甲の帝釈山脈を背負った難攻不落の堅城であり、容易に陥落しなかった。  ここにおいて、ついに天正六年四月、秀吉自ら三木城の包囲に当たり、持久戦法を採って、世に「三木の干殺し」と称せられる徹底した兵糧攻めをおこなった。しかし、秀吉が撤兵した上月城では、同年七月、尼子勝久が敗死し、山中鹿介は毛利氏にとらえられ、さらに同年十一月には摂津有岡城において信長が無二の股肱とたのんでいた荒木村重が背くに至り、兵站路を絶たれた形の秀吉の苦境は甚だしくなった。

織田軍との合戦

 この間、野口・神吉・平山・志方など三木城の支城は次々と、織田軍の攻撃にさらされた。
 神吉民部少輔元頼が守る神吉城攻めは、天正六年(1578)六月二十六日から始まり、城は翌月十六日に落城した。このとき、元頼はよく奮戦したが、織田方に内通した叔父神吉藤大夫に討たれたため落城したという。『信長記』では、天正六年七月十五日、滝川一益と丹羽長秀が神吉城の東の丸に攻め入り、十六日には中の丸に攻め込んで、民部少輔を討ち取り、天主に放火したので城は焼け落ち、篭城していた将士の過半は焼死したという。
 櫛橋左京亮伊定は、その本城である志方城に籠城した。織田軍は神吉民部少輔の拠る神吉城を攻め落したのち志方城に迫った。城主伊定とともに、櫛橋別家の伊則が将として加わり、一族の外に『播磨古城記』には「宇野、魚住、中村、長谷川等一千余騎守之」とあり、また、櫛橋別家の秀尚は天神山城を修復し、「赤羽城」と称してこれに拠った。


志方城址 /神吉城址 /淡河城址に残る堀址


 織田軍が志方城を包囲すると櫛橋勢は二度三度と城を撃って出たが、そのたびに大損害を受けるばかりで、 三木城からの援軍も来ず、つには城中に立て篭った。志方地方は元来周辺の山が低く、良水に恵まれない地であった。 そのうえ夏でもあったことから城中に疫病が発生し、武器をとって戦える将兵も減少、今はこれまでと 天正六年(1578)八月、伊定は城を出て自分の命と引きかえに、城兵の助命を願って降伏した。  

別所氏の滅亡

 支城は次々と秀吉方の手によって陥され、ついには本城である三木城ばかりとなってしまった。包囲網は城兵の抵抗にもかかわらず次第に縮小の一途をたどった。そして、丹波八上城が陥ち、また荒木村重が籠城十ケ月にして、翌天正七年九月に伊丹を脱走したことも別所氏にとっては痛手であった。
 こうして天正八年(1580)正月十七日、ついに城中の食糧が尽き果てて、長治は城兵の助命を条件に浅野長吉に 頼って降伏を申し出た。そして、弟友之、叔父賀相、一族妻妾らと自殺した。しかし、秀吉の猛攻と包囲を、 よく二年にわたって戦い抜いた事実は、戦国籠城戦史上の一大偉観というべきものであろう。



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