木山氏
大中黒・蜻蛉
(清和源氏新田氏流?)
・木山氏系図から |
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戦国時代、肥後国益城郡木山を領し、木山城に割拠していた木山氏が知られる。木山氏の場合、前木山氏と後木山氏があったことが知られ、後木山氏は伝えられた系図によれば、清和源氏新田氏流あるいは頼政流といわれるが、その真偽は不明である。おそらく、在地領主から発展したものであろう。
木山氏の拠った木山城の初見は、康永三年(1344)の「少弐頼尚書下文写」に木山松丸城という名で出てくる。在地の領主である木山幸蓮が築いたといわれ、のちに鬼山三郎遠江守が城主となった時に北朝方今川了俊により攻め落とされた。遠江守は木山の地を追われ、南朝方阿蘇惟武・惟政を頼り守富に知行地をあてがわれた。この木山幸蓮の系統は前木山氏といわれ、南朝系であったとされている。
その後の木山は応永十二年(1405)に室町幕府の兵糧料所となり、北朝方の阿蘇惟村に預けられ木山城には阿蘇家の一族と推定される木山惟興が居住した。惟興の流れが、戦国時代にあらわれる木山惟久(紹宅)につながるとされている。こちらの木山氏は前木山氏の南朝系と異なり、北朝系ということになる。
天正十三年(1585)九月十三日の木山神宮例祭の日に薩摩の島津義久の襲撃で木山城は落城し、木山氏も没落した。のちの肥後国衆一揆で活躍、戦死した木山弾正はこの一族であるとする説もある。
木山氏は嘉吉元年に木山神宮を鎮守として阿蘇系の神楽を奉納していたといわれ、いまも、木山の神楽として伝えられている。
木山氏の家紋は系図によれば、「大中黒・蜻蛉」とあり、大中黒は新田氏にちなむものという。また、阿蘇氏から鷹羽紋を用いることを許されたとも記されている。ただ、系図を見る限り清和源氏頼政流であり、新田氏との関係は見出せない。頼政流ということを信じるならば、桔梗紋であった可能性もあるが、もとより系図が信じられものであることが前提となる。
【参考資料:益城町史 など】
■参考略系図
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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