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片桐氏
丸に鷹の割羽/亀甲に花菱
(清和源氏満快流)


 平安末期から戦国時代まで春近領片切郷に勢力をはった片切(片桐とも)氏は、清和源氏満快流で満快の曽孫為公の子為基が信濃国伊那郡片桐に住んで片桐氏を名乗るようになったことに始まるという。為基は「片切源八」とも称していることから、片桐は片切とも書いたことは明かである。鎌倉時代の記録として有名な『吾妻鏡』にも片切太郎為安などが出ている。
 片切氏は清和源氏の分かれとして、源氏の嫡流に属して数々の合戦に出陣している。為基の孫為重は保元元年(1156)の「保元の乱」に源為義に属して戦死、その弟景重は保元・平治の両乱で源義朝に従い活躍したが、平治の乱で源氏が没落したことで平氏に領地を没収された。建久三年(1192)、鎌倉幕府の成立により源頼朝から本領を安堵され再び家を興した。頼朝の上洛に際して、大島・名子氏など片桐氏一族二十七名が随伴するなど、鎌倉幕府御家人に列らなっていたことが知られる。
 承久三年(1881)に起った「承久の乱」には、片切三郎が小笠原・武田氏らの東山道軍に加わり西上した。このとき、片切源太夫・同源太・小太郎らも従軍したことが諸書にみえている。戦後、片切源太長頼は美濃国彦次郷を賜り、一族は新領に移るものと信濃の本領を守るものとに分かれたという。


戦乱と片切氏

 「元弘の乱(1333)」で鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇の親政による「建武の新政」がなったが、足利尊氏の謀叛により南北朝争乱の時代になると信濃守護小笠原氏に属した。応永七年(1400)の「大塔合戦」には一族の赤須氏とともに守護方として従軍し、永享十二年(1440)の「結城合戦」には守護小笠原政康に属して大島・飯島氏らとともに出陣するなど、片切氏は一貫して守護小笠原氏に属して行動した。
 その後、信濃の片切氏の動向は不明となるが、諏訪神社上社の重要祭事の頭役を記録した『御符礼之古書』に、長禄二年(1458)為長が卒去、その子為嗣が家督を継いだ、長享二年(1488)には為偵が継いだことなどがみえている。次いで文明年中(1469〜86)、片切安芸守なる人物が片切郷に天神山常泉寺を開基し、文明十五年九月に卒したことなどが知られる。
 戦国期の天文十一年(1533)、武田晴信(信玄)の伊那侵攻にさいしては、他の伊那衆とともに松尾の小笠原信定の麾下に属して武田軍を迎え撃った。しかし、天文二十三年(1554)武田晴信が再び伊那郡に侵攻し知久氏までその武威に屈服すると、伊那郡の諸将士は動揺し、武田軍に降る者あるいは国外に逃亡する者などに分かれた。
 その結果、伊那部・宮田・殿島の三氏は晴信に滅ぼされ、片切・飯島・上穂・赤須・大嶋の春近五人衆は晴信に降り、五人合して五十騎の軍役に服した。永禄十年(1567)、生島足島神社において信玄麾下の諸将が起請文を出したが、そのなかに片切源七郎昌為が単独で、片切為房が飯島為政・伴野三衛門らと連名の起請文を差し出している。
 天正三年(1575)、武田騎馬軍団を長篠の合戦に撃破した織田信長は、天正十年、武田氏討伐の軍を起こした。信長は嫡子信忠を大将に命じて伊那郡に兵を進めた。これに対して、片切隼人正政忠(昌為)は織田軍を迎え撃ち上平小瀬において討死し、その長子某も大嶋城に籠って討死した。間もなく、武田氏も織田軍の前に滅亡し、片切氏の子孫は武士を捨てて帰農したという。一族のなかには徳川家康の配下に属し、在にあって代官・名主などを務めた者もいた。

●近世大名-片桐氏

 片桐氏の一族がのちに信濃国から近江国に本拠を移した。片桐為頼の時代で、曽孫直貞の代に浅井氏に仕えるようになった。それ以前から浅井氏との関係はあったようだが、浅井氏自身が、守護大名京極氏の被官の地位から急成長して戦国大名化していくのが大永〜享禄ごろなので、そのころ、直貞も浅井氏の家臣に組み込まれていったようだ。
 豊臣家の家老として有名な且元は、直貞の嫡男ではじめの名は直盛といい、父と同じく浅井長政に仕え、浅井氏の滅亡後、浅井旧領を手にした秀吉に属している。賤ケ岳の戦いに大活躍し、いわゆる「七本槍」の一人に数えられている。且元の弟が貞隆で茶道「石州流」の祖として名を残している。貞隆のあとが大和小泉藩主となって明治まで続いた。いまも大和小泉には子孫の方が住して「石州流」茶道を伝えているという。


■参考略系図
・片桐(片切)氏の系図は、諸本伝わっている。片桐氏で一番知られているのが、豊臣秀吉に仕えた且元を出した家だろう。しかし、それ以外にも信州に残って武田氏に仕えた片切氏、美濃に移住して土岐氏に仕え、のちに近江に移り、近世大名片桐氏に続いたとする家などがある。いずれも正しいのであろうが、その真実は不祥、としかいいようがない。


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