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家紋 ………
戦国龍造寺氏
・苦境を克服し、鎮西に武威を振るうが…



 龍造寺家は肥前守護少弐氏の被官。龍造寺氏中興の祖とされる曾祖父の龍造寺家兼(剛忠)は、亨禄三年(1530)周防の大内氏の肥前進出を田手畷で破ってより、少弐氏家中で頭角を表わすとともに、その名は九州に知れわたった。天文三年(1534)大内義隆はふたたび陶興房を将として肥前に侵攻したときも、家兼は神埼郡の三津の興房の陣所を、台風による高潮と洪水のなかを龍造寺家兼・家門の軍兵が急襲し、興房の軍を敗走させた。
 これらの戦功とその実力により、家兼は嫡流である村中龍造寺氏から、惣領職を譲られ、佐賀郡与賀・川副を中心に勢力を築くことになる。
 好事魔多し、家兼と並ぶ少弐氏重臣馬場頼周は龍造寺氏の台頭に危機感をもち、少弐冬尚の父資元の敗死の原因が家兼にあるとして冬尚を動かし、有馬晴純と結んだ松浦党の波多・鶴田氏、それに多久氏らに挙兵させ、この討伐を龍造寺家兼に命じた。天文十三年十一月、家兼は一族を率いて出陣したが、敗れて盛家などが戦死した。家兼は翌十四年一月、有馬晴純らの軍に居城を囲まれ、家兼は筑後に逃れた。
 水ケ江龍造寺一族が城を出たのを好機として、龍造寺氏を滅ぼすことを考えていた馬場頼周は、神埼・佐賀の山内に勢力を持っていた神代勝利とはかって、筑前に落ちようとした家兼の子家純・家門の兄弟と家純の子純家を河上社で襲って殺し、家純の子周家・頼純、家門の子家泰が勢福寺城の少弐冬尚を頼ろうとするのを、神埼郡尾崎村の祇園原で待ち伏せて殺害した。
 ここに、水ケ江龍造寺氏は壊滅的な打撃を受け、家兼の曾孫円月が還俗して胤信を名乗り家督を継いだ。のちの龍造寺隆信がである。天文十七年、本家当主胤栄の死により本家と分家を一本化し、重臣鍋島清房が後見となり、小川信安、納富信景、福地主計允らが補佐した。
 胤信は、父周家や祖父、叔父らの一族を殺害した少弐氏への恨みを忘れず、大内義隆に付きその片諱をもらい「隆信」と名乗った。そして、北九州の計略をめぐる大内→毛利氏と大友氏の対立を利用して急速に勢力を拡大した。しかし、天文二十年九月、大内義隆が陶晴賢の謀叛によって倒れると、晴賢は豊後の大友義鎮の弟晴英を大内家の当主に迎えて大内義長と名乗らせた。義鎮は弟が大友家当主となっったのを好機に、勢力拡大を図り、北九州に進出し博多掌握を目指した。

龍造寺隆信の危機

 一方、隆信の家督を喜ばぬ龍造寺氏の老臣土橋栄益は、大友氏に通じて隆信追放を画策し、大友寄りの龍造寺鑑兼を擁立しようとして、神代勝利、高木鑑房、小田政光、江上武種、馬場鑑周らの城将を糾合し、大挙して、村中城に押し寄せて包囲し、城からの逃げ道を塞いで孤立させた。
 隆信はじめ城内の者は、潔くこの城で自害しようと決めたが、包囲の将小田政光の家臣深町埋忠が、丸腰で城に入り、開城を説いたことで、隆信はこれに従い、母、妻子、弟ら家族をはじめ二百余人を引き連れて夜陰に紛れて城を去ることになった。一行は、女子までが皆槍の柄を短く切って手に手に提げ、大軍包囲のなかを無事に逃れ去った。隆信の命の恩人となった深町埋忠は、後年、隆信が小田氏の居城蓮池城を攻めたとき、戦死した。
 さて、脱出した隆信一行は、『北肥戦誌』によれば、川副郷の井尾村から、寺井の堤津に着いた。このころ、一行のなかから帰農する者や、他国へ逃れる者などが出たため、隆信に従って来た者は半分近く減っていたという。
 かれらの窮状に同情した柳川城主蒲池鑑盛は、大友方の立場ではあったが、「武士は相身互いである。いたわってやれよ」と、家臣らに命じて援助の手を差し伸べ、隆信ら一行の男女百余人を領内に住ませ、食糧、衣類などを贈り手厚く庇護した。隆信の曾祖父家兼も、かつて少弐氏に追われて筑後に落ち伸び、蒲池氏の情を受けたことがあり、龍造寺氏は蒲池から二代にわたる恩顧を受けたこととなる。
 隆信は流寓中、佐賀の旧臣・村主らと密かに連絡をとり合い、帰国の機会をうかがっていたが、二年後の天文二十二年七月、ついに一族・家来を率いて筑後を発った。このとき、蒲池鑑盛は、隆信の復帰に協力して二百の援兵を出し、かれの出陣を祝った。
 隆信らは鹿江に上陸し、鹿江兼明の案内で同地の威徳寺に陣した。そして、かねての計画どおり、鍋島清房、小河筑後守、納富左馬助、福地長門ら譜代の重臣をはじめ、鹿江兼明、同久明の父子、石井和泉守、同石見守・三河守、南里左衛門大夫以下の一族、そのほか村岡、副島、古賀、犬塚、末次らの諸士が集まり、一千を越す軍勢となった。
 隆信はただちに高木鑑房の討伐をすすめ、進撃してきた高木軍を若村で激破して敗走させ、続いて弟長信に八戸の八戸氏を攻略させ、早くも佐賀城攻撃の態勢をとった。佐賀城を守っていた小田政光は、隆信来攻の報に自城の蓮池城に撤退したので、隆信は佐賀城の奪回に成功し二年ぶりに復帰を果たした。
 その後、江上武種が降伏、隆信は蓮池城の小田政光・賢光父子を攻めて激戦のすえ、小田父子を降した。以後、小田氏は隆信の配下となった。また、元凶の土橋栄益を捕えて誅殺し、栄益に擁立されていた水ケ江の龍造寺鑑兼の領地を没収して鑑兼を小城に蟄居させ、水ケ江家を弟の長信に継がせた。
 とはいえ、鑑兼は隆信にとって夫人の兄であり、かれの前非を悔いる嘆願をうけて、隆信もついに罪を赦して佐賀に帰し所領を与えた。鑑兼の子家晴は、武功も多く隆信に忠節を尽くしたので、のちに柳川城代となり、さらに諌早領主となった。

隆信の台頭と神代氏との抗争

 その後、隆信は勇猛ぶりを発揮し、次第に勢力をのばして仇敵少弐氏の与党、綾部・姉川・犬塚・横岳・江上・馬場らの諸士をつぎつぎに降し、天文から弘治、永禄年間にかけて東肥前平定の軍を進め、永禄二年(1559)、ついに少弐冬尚の拠る勢福寺城を攻めて冬尚を自害させた。鎌倉期以来の九州の名族少弐氏はここに滅亡した。
 また、この勢福寺の城攻めで蓮池の小田政光は、隆信の命で出陣していたが、戦闘中、苦戦となり、本陣の隆信に救援を請うた。しかし、隆信は救援を送らず、これを見殺しにしたうえ、小田氏への猜疑心から蓮池城に兵を向けて一挙に攻め落としてしまった。隆信の残忍さが、ようやく諸人の口にのぼるようになったのである。
 この勇猛な隆信を苦しめたのが、山内の神代勝利であった。神代勝利は、主家少弐氏が龍造寺隆信によって滅ぼされたあとも、隆信に屈せず、かれと互角に戦った。弘治元年(1555)二月、龍造寺隆信は、山内を攻略できず、勝利と一時休戦して和議を結んだ。この和平会談に誘われた勝利は、隆信と会見したが、勝利に従っていた近臣の機転で、勝利毒殺の陰謀を未然に防ぐことができた。そして、酒宴の際も勝利主従は油断なく気を配り、勝手に馳走になったあげく、帰り際、勝利は隆信の愛馬に飛び乗って、呆気にとられる隆信らをしり目に悠々と引き上げたという。
 その後も隆信は、計略をめぐらせたが、勝利は、神出鬼没の行動で、山内の城を転々とし、隆信方の目をくらましていた。隆信は間者を用いて辛抱よく山内の情報を集め、勝利の所在を内偵させていた。そして、勝利が谷川にいることを突き止めると、密かに大軍をもって攻め上り、谷川城を急襲した。これには、さすがの勝利も救援を呼ぶ間もなく、わずかな兵を指揮して激しく戦ったが、ついに敗れ、妻子をつれて脱出し、筑前の高祖城主原田隆種を頼って落ちていった。
 勝利は原田隆種の領内長野で、山内復帰の機会を狙って密かに味方を集め、弘治二年(1556)の暮、折からの雪をおして山越し、翌三年の正月、年始で油断していた隆信配下の熊の川代官館を攻めて、代官以下を討ちとって凱歌を上げた。勝利復帰の報に、山内各地から三千余の神代勢が集まり、各所の城砦を奪回した。
 永禄四年(1561)九月、隆信は山内に使者を遣わし、勝利に対して挑戦状を送った。勝利は、もちろんこれを受けた。そして、期日の九月十三日、朝から両軍は山と里の境にある川上川の流域で戦闘を開始した。ところが、神代軍中に謀叛が起こり、前後に敵をうけて勝利らは大敗し、血路を開いて山内へ逃れた。だが、龍造寺軍の探索は厳しく、勝利・長良父子や家族らは、大村領の波佐美へと移り、そこに隠住した。
 その後、旧臣たちの働きで隆信の代官を追いだし、神代父子はふたたび山内に復帰した。山内は神代父子の帰山を喜び合った。勝利の山内二度の復帰は、山内の民がいかに勝利に馴染んでいたかがうかがわれる。
 勝利が山内復帰後、隆信はかれの暗殺を図ったが失敗。しかも、少弐氏滅亡後、大友方となった領主や龍造寺に反抗する諸城を攻略するのに寧日ない状態であったため、隆信の老臣納冨但馬守の進言を容れ、永禄五年、神代勝利との間に誓約を交して和睦が成立した。このとき、勝利の四歳の孫娘と、隆信の三男鶴仁王丸との縁組契約が行われた。

大友氏との戦い

 中国地方では、大内義隆に属していた毛利元就が、陶晴賢を大内氏の仇として、討伐の機会をうかがっていた。そして、弘治元年(1555)、安芸の厳島において陶に大軍を撃破し、晴賢を討って大勝利した。二年後には、晴賢に擁立されていた大内義長を長府に追い詰めて自害させ、一躍中国の大大名として内外に毛利氏の存在を示した。
 隆信は、家督継承以来、一族を謀殺した少弐氏、それを後押しする大友氏への反抗態勢をとり、ついに少弐氏を滅亡させたが、大友義鎮に対抗するため、防・長両国で勢力を伸ばす毛利元就に通じた。
 これに対し、大友宗麟は総力を結集して佐嘉城を包囲したが、毛利の筑前出兵によって撤退を余儀なくされた。しかし、それも束の間、元亀元年(1570)大友は再び佐嘉城めがけて進撃した。義鎮自身は高良山に本陣をおき、大友八郎を大将に、戸次・臼杵・吉弘らの部将をつけ三万の軍勢をもって肥前に攻め入らせた。この時点では、龍造寺氏と九州の最大勢力である大友氏との戦力の差は隔絶しており、またたくく間に大友氏は龍造寺氏居城佐嘉城を包囲した。
 さらに、大友氏の軍勢に加えて、隆信を恨む小田鎮光・賢光兄弟、また、筑紫・神代・馬場・犬塚・横岳らの東肥前の国人領主や、西部の有馬・西郷・大村・松浦党の諸氏も加わり、大友方の軍勢は山野に充満した。
 この窮地に際して龍造寺氏の重臣鍋島信昌(直茂)は乾坤一擲に奇襲作戦を提案した。すなわち、勝ちに奢った大友氏に対して夜襲をかける、というものであった。しかし、諸将は戦い疲れており誰もこの作戦に賛成する者はいなかった。ところが、隆信とこの軍議に参加していた隆信の母の賛成により作戦は決行に決まった。
 かくして直茂は敵の本陣・今山を奇襲し、総大将・大友親貞を討ち取る大功を立てた。今山の合戦である。この奇襲の成功により勢いを盛り返した龍造寺軍に対し大友軍は後退に転じることとなった。この戦いは隆信にとって、織田信長が今川義元を敗死させた桶狭間や、毛利元就が陶晴賢を討った厳島合戦にも匹敵する家の興亡を賭けた記念すべき一戦であった。ちなみに、この合戦での戦勝を記念して、大友家の家紋「杏葉」を紋として使うようになったと伝える。
 大友氏の大軍を佐賀で敗北(今山合戦)せしめた隆信は、まず、大友氏の勢力圏にもっとも近い東部肥前を平定し、次いで大友氏の与党の多い北部肥前を降し、さらに西部・南部肥前に進出して、天正六年までに肥前制覇を完了した。
 さらに隣接諸国に対する経略をただちに開始し、こうして天正八年までに筑後一国のほか、肥後・筑前の半国および豊前三郡を征服し、今山合戦以来わずか十年の間に、いわゆる「五州の大守」に発展したのである。ここに、九州は、龍造寺・大友・島津の三強鼎立時代を迎えた。
 龍造寺氏の征服地に対する支配の仕方は、佐賀地方を中心とする肥前八郡に対しては、有力な在地領主との養子縁組み政策や、龍造寺・鍋島一族の要地配置を通じて、強力な支配権を打ち立てたのに対し、多良山脈以西・以南の肥前三郡に対しては、松浦・大村・有馬氏らの戦国大名などから起請文を懲し、あるいは人質を提出せしめるなどにとどまり、その支配の実態はきわめて脆弱な基盤の上に立っていた。
 特に肥前以外の分国においては、龍造寺氏の麾下に属した在地領主の離反、家臣化が繰り返され、これまたきわめて不安定な基盤の上に立っていた。こうした傾向は、薩摩・大隅・日向の三州を統一した島津氏の北上とともにいっそう著しくなってくる。

島津氏との決戦、そして隆信の戦死

 天正九年(1581)、北進を目指す島津氏は肥後の相良氏を降し、肥後に勢力を伸ばしてきた。これをみた肥前島原領主の有馬晴信は龍造寺氏を離れ島津家に誼を通じた。これを知った隆信は、自ら三万の大軍を率いて島原に上陸、有馬氏の居城・日野江城を目指した。有馬晴信は島津家に援軍要請を出した。
 晴信からの援軍要請を受けた島津家中では、地理不案内の島原への派遣に対し否定的な意見を出す家臣が多かった。しかし、島津義久は「古来、武士は義をもって第一とする。当家を慕って一命を預けてきたものをなんで見殺しに出来ようか。」といい、島原への派兵を決定。派遣軍の総大将には末弟で、島津家一の戦上手といわれた島津家久が選ばれ、脇将として島津忠長・新納忠元・伊集院忠棟・川上忠堅ら精鋭三千が有馬氏救援に派遣された。  そして、天正十二年(1584)、島津・有馬連合軍六千の兵と龍造寺氏の大軍が、沖田畷で対峙した。沖田畷の地は大軍を展開することが困難な場所で、寡勢をもって龍造寺軍を迎え撃つのに絶好の地として家久が予定戦場とした地でもあった。
 沖田畷付近で龍造寺軍の先鋒部隊が島津軍と遭遇、龍造寺軍は島津軍が小勢なのを侮り、物見も出さずに攻めかかった。策を秘めた島津軍は、たいした抵抗もせず、ずるずると後退し、勢いに乗った龍造寺軍は一気に攻め立てようと沖田畷の畦道をひた進んだ。
 家久は龍造寺軍が十分射程に入ったのを確認すると、一斉に銃弾を撃ちんだ。思わぬ銃弾の飛来に龍造寺軍は先陣が崩れ、退却しようにも後続の軍が次々と続いてくるため身動きがとれず、狭い道の中で大混乱に陥いった。
 龍造寺軍の混乱ぶりを見きわめて、島津軍は一斉に抜刀し、三方から龍造寺軍に攻めかかった。隆信は、進展を見せない合戦に苛立ち、自らが前線に立ち指揮を取ろうとした。この時、島津家久の家臣・川上忠堅の放った鉄砲弾が隆信に命中、龍造寺隆信は呆気無く五十六才の生涯を閉じた。一方、寡勢をもって、勢いにのる龍造寺氏の大軍を撃ち破り大将まで討ち取った、島津家久の作戦による大勝利であった。これで島津氏にとって九州制覇への道が 大きく開けたのである。



■龍造寺氏参考略系図  ・詳細系図にリンク(PDFデータ)


 


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