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家紋 ………
龍造寺氏の歴史
・鎌倉期から南北朝期



 龍造寺氏の始祖と伝えられる季家は、高木季経の子で龍造寺季喜の養子となった。そして、高木本家を継いだ高木宗家らとともに源頼朝に協力し、逸早く御家人となった。
 季家のあとを継いだ季益は長瀬南三郎とも称し、佐賀郡長瀬の館に住んだといわれ、また鎌倉の鶴ケ岡八幡宮を勧請したとも伝えられている。

鎌倉幕府の斜陽

 文永五年(1268)、蒙古皇帝フビライの国書が太宰府にもたらされ、太宰府の守護人武藤資能はこれを鎌倉に送った。のちの、文永の役には龍造寺氏も高木氏等とともに参戦したようだが、その詳細は分からない。文永の役後、博多湾防御の防塁を築くための石築地役は、肥前の御家人たちにも課され、龍造寺一族も参加した。
 弘安の役においては季益の子、季時・家時らが参戦した。武藤資時は壱岐に向かった元軍を船で追い、壱岐の大瀬戸・小瀬戸・三年浦・幾島・松島等で戦ったが、このとき、龍造寺季時が参戦したことが「龍造寺家文書」にみえている。弘安四年(1281)の弘安の役後も、元軍の再襲に備えて異国警固番役は続けられたが、龍造寺氏も季時・季友・家益、それに家種・季利などが博多の姪ノ浜で番役をつとめた。  なお、この間に龍造寺家益の代までは、肥前国龍造寺村のほかに筑前国比伊郷、筑後国荒木村の地頭に補されたことが知られる。
 元寇後、鎌倉幕府の支配にらげりがみえ、正応二年(1289)に配分された蒙古合戦勲功恩賞地の配分に不公平感も生じて、御家人達の不満が募っていった。そのような中、龍造寺一族内でも所領をめぐる紛争が生じた。すなわち、正和二年(1313)、龍造寺家益の遺領の地頭職の件で、龍造寺家実が叔父の家親を訴えたことが「龍造寺家文書」でうかがえる。この争論の結果については不明だが、家親が建武三年(1336)筑前国長淵庄一分地頭を名乗っているのをみると、筑前の地頭職を保有していたことが推察される。

幕府滅亡と南北朝の争乱

 鎌倉幕府の滅亡に際しては、龍造寺氏をはじめ肥前の御家人たちは、少弐氏に従って鎮西探題を攻めた。龍造寺家清の子家泰も元弘三年(1333)五月、「北条英時誅伐」を名目とした出陣催促に参陣し、着到状を同年七月に提出している。なお、同年十月には肥前の武士達が相次いで上京しているが、龍造寺家泰は十月二十一日に着到状を提出し、足利尊氏の証判を得ている。その後も龍造寺家種・家泰・季利らは建武新政府に属して戦い、足利尊氏が新田義貞討伐を理由に挙兵すると、尊氏に従って戦った。
 建武二年、新田義貞の軍を箱根竹の下の戦いで破って、翌年正月、京都に入った尊氏の軍勢は北畠顕家らに敗れて西国へ落ちたが、龍造寺家種はこれを長門国赤間関に出迎えている。
 同年三月、菊地武年・阿蘇惟直らが、筑前多々良浜で尊氏・直義の兄弟を迎かえ撃ったが、つに尊氏側の勝利に終わった。肥前の武士達は足利尊氏側について戦ったが、龍造寺家種も当然そのなかにいたものと考えられる。その後も、家種・家泰・季利らは筑後や筑前で菊地勢と合戦を続けている。
 建武三年(1336)十二月、後醍醐天皇は京都を出られて吉野に入り、南北朝対立の時代となり、翌建武四年劣勢だった九州の南朝勢力は、菊地武重の肥後での挙兵によって勢力を盛り返した。しかし、龍造寺氏の一族は一貫して武家方である九州探題一色氏の命令に従っていた。康永元年(1342)、征西将軍宮懐良親王が九州にはいり、一色範氏も肥後へ出兵したが、龍造寺家貞にも軍勢の催促状が与えられた。
 やがて、尊氏と直義の兄弟の間に不和が生じ、直義の養子となった直冬が貞和五年(1349)に九州に入ると、直冬は肥前に進出し、肥前は宮方・九州探題・直冬の三つどもえの争奪の地となった。その間に龍造寺氏は協力な後楯を求めて去就を繰り返した。文和元年(1352)足利直義が殺害されると、直冬の九州における勢力は弱まり、やがて、かれは九州を逃れた。この間宮方は菊地武光を中心に勢力を伸ばし、武光は少弐頼尚と結んで九州探題一色氏を攻め、文和四年には懐良親王が肥前の国府まで攻め入った。龍造寺氏は一色氏を助けて東肥前の武士たちと協力したと思われるが、詳細は不明である。
 その後、一色氏は長門国に逃れ、九州は宮方の勢力が強大となった。しかし、宮方と少弐氏の提携もくずれ、延文四年(1359)八月、大保原の合戦が行われた。このとき、龍造寺一族は少弐頼尚に従って筑後川をはさんで菊池軍と対戦したが、菊池武光の軍が渡河して大激戦となり、双方に多くの犠牲者を出して痛み分けとなった。
 大保原合戦の翌年の延文五年、菊池武光は肥前に進出して神埼郡を支配したが、少弐頼尚と結んでいる龍造寺一族はこれと対戦した。龍造寺家経は、肥後・筑後の菊池勢が太宰府に攻め寄せた時に出兵して、六月、神埼に進出した菊池勢と松崎・本告の両城を攻めて合戦をした。
 九州の宮方の優勢のなかで、肥前では、貞和元年(1362)懐良親王が三根郡光浄寺を祈願所にしたり、貞治三年、菊池武顕が武雄社に長島荘内の土地を寄進するなどの動きがあり、宮方の勢力が浸透してきたが、決定的なものではなかった。

九州南朝勢力の衰退

 その後、応安四年(1371)、今川貞世(了俊)が九州探題として下向し、以後、九州における政治情勢は一変する。そして、肥前守護として貞世の弟仲秋が肥前に入ると、龍造寺一族をはじめ、肥前の諸豪族たちはこれに従った。龍造寺家経の子家是は、仲秋のもとに馳せ参じ、相知・多久・塚崎をへて、翌年の二月、杵島郡甘久の烏帽子嶽で菊池武政の率いる宮方の軍と戦った。
 こうして、今川了俊が九州探題、弟仲秋が肥前守護として活躍し、龍造寺氏はその配下にあって肥前を中心に戦った、そして、宮方はだんだんと劣勢に立たされ、菊池武光が没すると、懐良親王は太宰府を去って筑後の高良山へ、さらに肥後へと後退した。
 しかし、その間に今川了俊が、少弐頼尚の子で筑前の守護として肥前その他にも勢力の拡大をはかっていた少弐冬資を謀殺したため、在地勢力との反目が生じた。天授二年(1376)の南朝号で、龍造寺家是あてに龍造寺村の惣領分の知行が返されている文書が残されているのは、この事情のなかでの宮方の巻き返し策かと考えられる。
 龍造寺氏は、通常は九州探題・肥前守護の支配に服しながら、政情の変化にともなって、一族の永続のために対応を模索せざるをえなかった龍造寺氏の立場が理解できる。しかし、今川了俊・仲秋による肥前支配は強化され、是家の子家治も、明徳二年(1391)に了俊の子貞臣から若狭守の官途推挙状を得ている。このように、龍造寺氏は九州探題に属し、京都の政権にあこがれをもっていたと考えられる。
 明徳三年に南北朝の合一が行われ、その後、今川了俊が九州を去った。九州探題には渋川氏が任じられたが力がなく、周防・長門の大内氏を後楯としたために大内氏の勢力が北九州に伸長し、筑前守護の少弐氏も肥前に押し込められる形となった。その少弐氏は龍造寺氏をはじめとする肥前の在地勢力を結ぼうとした。少弐貞頼が龍造寺家治の子康秀に対して「忠節いたし候の条、神妙に候」という内容の書状を送っているのは、それだけ龍造寺氏を頼りにしていたからであろう。
 かくして、龍造寺氏は少弐氏を援け、その後に起こる応仁の乱、さらには戦国時代へと続いていくのである。
【資料:日本の名族11・龍造寺氏の項】

  


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