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鍋島直茂
・その智謀で隆信の覇業を支え、ついには…
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鍋島氏は、少弐政資の弟である経直の子経房が、佐嘉郡鍋島村を領し、鍋島を名乗ったという。しかし、実は、経直は佐々木源氏の流れを汲む京都北野の住人長岡経秀の子で、女婿少弐経房を養子としたものだともいう。経秀・経直父子は肥前小城に勢力を誇っていた千葉氏を頼って下向、鍋島に居し鍋島を称したとする。以後、鍋島氏は、経房−清久−清房−直茂と続く。
●龍造寺氏の台頭
亨禄三年(1530)、周防・長門の戦国大名大内義興が肥前に攻め入って、少弐氏を追った。このとき、少弐氏の重臣龍造寺家兼は大内軍の第一陣を破ったが、第二陣をつとめる筑前国守護代杉興連らの軍に苦戦した。「田手畷の合戦」である。この合戦を勝利に導いく要因をなしたのが、鍋島清久・清房父子であった。いこれを契機に鍋島氏は龍造寺氏に重く用いられるようになる。また、このときの戦功により、家兼は孫の家純の女を清房に娶らせた。そして生まれたのが直茂である。
その後、龍造寺家兼は少弐氏家中で重きをなし、それに危機感をいだく馬場頼周によって、筑後に亡命するはめになった。さらに、馬場頼周の追及は、家兼の一族にもおよび、筑前に落ちようとした家兼の子家純・家門の兄弟と家純の子純家を河上社で襲って殺し、家純の子周家・頼純、家門の子家泰が勢福寺城の少弐冬尚を頼ろうとするのを、神埼郡尾崎村の祇園原で待ち伏せて殺害した。
筑後に逃れた家兼をふたたび佐賀へ帰す動きをしめしたのは鍋島清久らであった。清久らは、千葉氏の内紛に乗じて千葉胤勝と結び、龍造寺氏の知行として長く培ってきた佐賀郡与賀・川崎の郷士の協力を得て、天文十四年三月、家兼は川副のシクツ江の無量寺で旗揚げして水ケ江城を奪回し、翌月小城の祇園城にいた馬場頼周を攻めて討ちとった。
家兼はその死に際して、曾孫で出家していた円月を還俗させることなどを遺言した。還俗した円月は、胤信を称した。のちの龍造寺隆信である。龍造寺隆信の母は、弘治二年(1556)鍋島清房の継室となり、隆信と直茂は義兄弟の間柄となった。
隆信は、天文十六年に筑前より帰国した嫡流村中龍造寺家の胤栄とともに、少弐氏の諸勢力と各地に戦ったが、胤栄は十七年に病没した。嗣がなく、隆信が胤栄の未亡人を室として村中龍造寺家を継いだ。家督に際して、胤栄弟の家就と二人してクジを引いた結果ともいわれる。
●鍋島直茂の活躍
龍造寺氏が北九州の雄となる飛躍台となったのが、元亀元年(1570)の今山の戦いである。豊後の大友義鎮は筑後に侵入して高良山に陣し、甥の大友八郎親貞に大軍を預けて今山に進ませ、佐賀城に迫らせた。佐賀城内では、外に出て戦うか、籠城かに意見が分かれた。このとき、直茂は籠城に反対して奇襲を主張し、自ら兵を率いて今山の大友氏の陣を襲い、八郎を敗死させた。
以後、直茂はその地位を不動のものとし、龍造寺隆信の名も一躍九州一円に知れわたった。そして、やがては筑前・筑後・肥後を切り従え、五州二島の太守と呼ばれるようになるのである。いわば、龍造寺氏は直茂の働きで北九州に大勢力を保ちえたともいえる。隆信も三男の家信に宛てた遺言状に「鍋島飛騨守(直茂)は、内々では全く自分と同意見であるから、自分の死後は何ごとも直茂に相談するがよい」という意味のことを書き残している。
隆信は天正十二年(1584)、島津・有馬連合軍を討つべく島原半島の沖田畷に出撃して戦死するにいたるのだが、「鍋島直茂公年譜」によれば、この戦いの不利を予知した直茂は、隆信の出陣を諌止したとある。もちろん、年譜は直茂を美化したきらいがあるもので、ある程度割引いて読む必要はあるものの、龍造寺家にとって直茂が無二の功臣であったことだけはほぼ間違いない。
隆信の跡は嫡子政家が継いだが、政家の器量を危ぶんだ龍造寺一門、重臣たちは、危機を乗り切れる者は直茂のほかにいないとして、「御家裁判」すなわち領国の支配・経営を直茂に委ねることを話し合い、政家に訴えた。これにより、政家は領国支配の要請と誓紙を直茂に与えた。そこまで仰せられるならば、と直茂も承知したという。政家の心中はどうあれ、平和裡に龍造寺氏の領国支配権が鍋島氏に移っている。
天正十五年三月の豊臣秀吉の九州征伐では、政家・直茂はいちはやく秀吉に降って、政家は肥前七郡その他三十一万石を安堵された。直茂はとくに秀吉の名指しで養父郡の半分と高木郡内の地四万五千石を与えられ、引き続き龍造寺の家政にあたることになった。
十八年に政家は秀吉の命で隠居させられ、五歳の長法師丸(のちの高房)があとを継いだが、その後も「御家裁判」は直茂は掌握した。文禄の朝鮮出兵に際し、直茂は一万二千の兵を率いて従軍し、子の勝茂もまた出陣している。一方、隠居の龍造寺政家はもちろん高房も出陣せず、軍役を免除されている。軍役のないのは、すでに大名ではない。
関ヶ原合戦では、勝茂は西軍に荷担して危ういところだったが、直茂の柳川城立花攻めの功により、許されて本領を安堵した。
龍造寺氏の滅亡
その後、龍造寺高房は一諸大夫として将軍徳川秀忠に仕えた。国許からは年間八千石の料米がおくられていた。一方、勝茂は、徳川家康の養女を夫人に迎え、諸大名に列し、佐賀三十五万石の総力を結集して江戸、名古屋、駿府の城普請を手伝っていた。慶長十二年春、高房は突如、夫人を殺し、自分も自殺をはかるという事件を起こした。直茂は高房の切腹未遂を、鍋島に対する当て付けではないか、と立腹している。
高房は、佐賀へ帰って養生することになっていたが、自暴自棄な行動で、自殺同然な死に方をした。そして、その一ヵ月後、政家も後を追うようにして死去した。ここに、龍造寺家の嫡流は断絶した。幕府は、念のため、龍造寺の一門三人(家晴・隆信の弟信周・長信)を江戸に呼んで、家督問題について意見を聞いた。三人とも、直茂の功績をたたえ、勝茂を相続人に推挙した。かくして、龍造寺氏に替わり、鍋島氏が名実ともに佐賀の大名となったのである。
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