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家紋 ………
龍造寺家兼
・隆信を見出した龍造寺氏中興の傑物



 龍造寺家兼は、剛忠と号し康家の子である。兄に胤家・家和などがいる。胤家は千葉氏と結んで大内氏と近かったせいもあって、龍造寺家の惣領とはならず、家督は家和が継ぎ、家和の子胤和・胤久の兄弟に引き継がれた。
 しかし、胤久は龍造寺本家を継ぐことなく出家することになった。これは、亨禄三年八月の大内義隆の肥前侵攻と関わりがあった。大内義興のあとを継いだ義隆は、少弐氏の台頭をみて、筑前から肥前へ進出しようとした。少弐資元は勢福寺城でこれを迎え撃ったが、筑紫・朝日・横岳などの諸国人領主は大内氏の勢力下に入った。しかし、龍造寺家兼・家門父子をはじめ、江上・小田・犬塚など佐賀・神埼郡を中心とする国人たちは、結束して大内軍を迎え撃ち、田手縄の戦で大内軍を敗走させた。
 この家兼父子の活躍によって、龍造寺氏内部における家兼の存在が大きくなり、胤久の立場は弱くなった。そして、一族間の紛争をさけるため、胤久は家兼・家門父子に龍造寺氏の惣領の地位を譲り、退隠する意志を示し、叔父家兼にその地位を譲ったのである。しかし、胤久の系統が絶えたわけではなく、以後、胤久の系統は村中龍造寺氏、家兼の系統は水ケ江龍造寺を称するようになった。

名将、龍造寺家兼

 家兼は亨禄三年(1530)の大内氏の進出を田手畷で破ってより、頭角を表わし、天文三年(1534)大内義隆はふたたび陶興房を将として肥前に侵攻したときも、神埼郡の三津の興房の陣所を、台風による高潮と洪水のなかを龍造寺家兼・家門の軍兵が急襲し、興房の軍を敗走させた。
 興房が三津で敗退した報を得た大内義隆は、本格的な肥前への出兵を行った。そして、同年十月、三万余の軍を率いて太宰府に入り、少弐冬尚のいた勢福寺城を攻略した。一方、義隆は優勢な兵力を背景に、龍造寺家兼を仲介として少弐氏との和議をすすめた。これによって和議が成立し、少弐氏と結んで大内氏に対抗していた豊後の大友氏も大内氏と和平した。しかし、義隆は翌天文四年に陶興房に命じて、三根・神埼・佐賀三郡の少弐氏の所領をことごとく没収、さらに多久にいた少弐資元を攻めて自殺させた。
 しかし、資元の子冬尚を擁して少弐氏による肥前支配を望む国人も多く、大内氏の九州支配に危機感を持っていた大友義鑑は冬尚を支援した。冬尚は父資元の自殺の原因を作ったのは龍造寺家兼だとして、家兼の居城水ケ江城を攻めたりしたが、これまで、少弐氏を支えてきた肥前の国人層の分裂を露呈する結果に終わった。  冬尚は、もはや龍造寺家兼の支援なしには体制挽回が不可能なことを悟って、天文九年(1540)、家兼に支援を願った。家兼はこれを容れたが、このころには実質的には主従関係は逆転していたといえよう。かくして、西からの有馬晴純の肥前侵攻を少弐・龍造寺・千葉氏の連携で食い止め、少弐冬尚は天文十一年一月、龍造寺家兼の支援のもとに神埼勢福寺城に復帰した。
 この時期の東肥前の政治的安定を物語るものとして、天文十二年二月四日の銘のある千葉八幡宮に旧蔵されていた鐘の銘文がある。
 それによると、大檀那の大宰少弐藤原冬尚以下、馬場六郎藤原政員・前肥前守頼周(馬場頼周)・筑紫四郎惟門・宗筑後入道本盛・馬場右衛門大夫周詮・馬場大蔵丞周・江上石見守元種・東弾正少弼盛親・龍造寺山城入道剛忠・龍造寺新次良胤栄・同三郎兵衛家門・同伯耆入道日(盛家)・小田九郎政光の十三名が列記され、共同で鐘を奉納したことがわかる。そして、このなかに馬場氏四名、龍造寺氏四名の名が見え、この二家が実力者であり、家兼・家門の水ケ江龍造寺父子が、村中¥龍造寺の胤栄や、家兼の兄の子盛家よりも前に名を連ねている。

家兼の悲劇

 やがて天文十二年、肥前国の勢力バランスはすでに崩れた。龍造寺氏の台頭に危機感をもった馬場頼周は、冬尚の父資元の敗死の原因が家兼にあるとして冬尚を動かし、有馬晴純と結んだ松浦党の波多・鶴田氏、それに多久氏らに挙兵させ、この討伐を龍造寺家兼に命じた。天文十三年十一月、家兼は一族を率いて出陣したが、敗れて盛家などが戦死した。家兼は翌十四年一月、有馬晴純らの軍に居城を囲まれ、家兼は筑後に逃れた。
 水ケ江龍造寺一族が城を出たのを好機として、龍造寺氏を滅ぼすことを考えていた馬場頼周は、神埼・佐賀の山内に勢力を持っていた神代勝利とはかって、筑前に落ちようとした家兼の子家純・家門の兄弟と家純の子純家を河上社で襲って殺し、家純の子周家・頼純、家門の子家泰が勢福寺城の少弐冬尚を頼ろうとするのを、神埼郡尾崎村の祇園原で待ち伏せて殺害した。
 ここに、水ケ江龍造寺氏は壊滅的な打撃を受け、水ケ江城は冬尚の指示で、馬場・神代・小田らの家臣が交代で城番を勤めた。この事件後、龍造寺氏の惣領の地位は村中龍造寺氏に移ったと考えられるが、その村中龍造寺氏も次第に力を失っていった。
 筑後に逃れた家兼をふたたび佐賀へ帰す動きをしめしたのは鍋島清久らであった。清久らは、千葉氏の内紛に乗じて千葉胤勝と結び、龍造寺氏の知行として長く培ってきた佐賀郡与賀・川副の郷士の協力を得て、天文十四年三月、家兼は川副のシクツ江の無量寺で旗揚げして水ケ江城を奪回し、翌月小城の祇園城にいた馬場頼周を攻めて討ちとった。佐賀に戻った家兼は、天文十五年九十三歳で没した。
 家兼は、分裂しがちであった龍造寺氏をよくまとめ、与賀・川副の沃野に基盤を築いた。晩年になって子や孫を一時に失う悲運にもあったが、最後はふたたび佐賀に帰ることができた。かれが亡命先の筑後から復帰できたのは与賀・川副の領民の掌握がよく行われていたからである。そのことは、「剛忠さん」という名でいまも親しまれていることからも、家兼が優れた仁政家であったことがしのばれる。
 家兼のあとは、かれの曾孫にあたる胤信、のちの隆信が水ケ江龍造寺氏を継ぎ、戦国大名として龍造寺氏は飛躍することになるのである。

  


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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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