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戦国大友氏
全盛期には九州を併呑する勢いを見せる   


 大友氏は豊後地方に土着し、初代能直、二代親秀の代に詫摩・一万田・志賀・田原・戸次らの一族諸家を創出し、ここに大友一族各家が成立した。南北朝の内乱以後、大友宗家は、これら一族各家のうち本家に忠実な有力庶家に支えられながら、直臣団の強化と遣明貿易からうる経済力などによって、巧みに守護領国体制を展開した。
 九代氏継以降、弟親世系との間にしばらく両統交立がみられたが、義長のころになると長子単独相続制が確立し、大友宗家の権力が強化された。さらに、義長の時代には、庶家や譜代直臣(同紋衆)のほかに、他姓衆である在地領主の家臣団化が推進され、次の義鑑の時代になると、大友一族六十家・他姓一族百家からなる大友家臣団が成立し、戦国大名へと発展した。
 義鎮の時代になると、分国の拡大が急速に進められ、一時大友氏は、豊前・豊後のほか、筑前・筑後・肥前・肥後の六ケ国を版図に加える勢いを示したのである。こうした分国の拡大に伴い、戸次氏の筑前立花移封にみられるように、同紋衆を現地に派遣し城督に任命して、征服地の掌握につとめた。しかし、立花移封後の戸次氏は、大友氏の意図とは裏腹に、次第に独自的な分権権力としての性格を強めていった。
 また、大友氏は家臣団の編成において、在地領主の地域的な結合単位である一揆や衆中を支配の基盤とし、 有力家臣に対しては、所領に対する検断不入の原則を認めたり、夫役免除の特権を与えるなど、分国に対する 土地所有権の掌握はきわめて不十分であった。

島津氏との決戦

 天正六年(1578)、三州を統一した島津氏に対して、大友氏は豊後より軍勢を南下させたが、日向の高城(耳川合戦)で島津氏に破れ、これより大友氏は守勢に立たされた。やがて、天正十二年三月、龍造寺・島津両氏が全面対立したのである。隆信は鍋島直茂の諌言に耳を貸さず、大軍を率いて高来に南下したが、島原沖田畷で戦死した。隆信の戦死によって九州の政治地図は大きく変化した。龍造寺・大友・島津三氏の均衡関係が崩壊したのである。
 大友氏は龍造寺氏に対して、強力な反撃を起こし、筑後の諸士は多く大友方に帰参した。当時、八代にあった島津義弘は、三州の大軍をもって北上し筑後に侵攻してきた。こうして、龍造寺・大友・島津三氏の最後の攻防戦は筑後を舞台に展開されたのである。天正十三年(1585)、まず大友氏が龍造寺・島津両軍の挟み撃ちにあって敗北した。島津軍は筑前・肥前に討ち入って広門を降し、大友方の高橋紹運の岩屋城、立花宗茂の立花城を攻撃した。このとき、紹運は自刃したが、宗茂は立花城に籠って最後まで抵抗した。
 ここで、島津氏は筑前平定と豊後討伐を評議して結果、後者を優先させることとし、大友氏の本拠豊後に突入した。すでに大友氏が豊臣秀吉に救援を求めていたからである。大友宗麟の子義統は、島津軍の全面攻撃を受けて豊前に逃れ、大友氏が支配した豊後は島津氏の支配下に入ったのであった。
 天正十三年(1585)、四国平定を完了した秀吉は、島津氏に対し大友氏との講和を命じたが、島津氏は、これを拒否して大友氏を攻撃したため、ついに秀吉は島津征伐を意図し、同十五年、大軍を率いて九州に出陣した。ここで全九州の大名は、秀吉に帰参するか島津氏に味方するかの二者択一の立場に立たされたが、立花宗茂・鍋島直茂をはじめ、北および中九州の大名は、いっせいに立ち上がり、秀吉に帰参して島津攻撃軍に加担した。こうして、島津軍は総崩れとなり、鹿児島に退いて降伏した。
 秀吉は、龍造寺・大友・島津三氏に対しては、それぞれ侵略前の旧領を安堵することとし、龍造寺氏は肥前七郡、大友氏は豊後一国、島津氏は薩摩・大隅二国と日向諸県郡を安堵された。このとき、大友氏の有力部将であった立花宗茂も大名に取り立てられている。
 天正十八年(1590)、全国を統一を実現した秀吉は、翌十九年より朝鮮出兵を進め、翌年には諸大名に 出陣命令を下した。こうして朝鮮出兵が始まったが、朝鮮出兵軍のうち、一番隊から六番隊まで、五番隊の四国勢を 除いて、すべて九州勢によって構成された。その意味では、朝鮮の役は九州の諸大名にとって、きわめて重要な 意義を有したのである。

大名からの転落

 ここで大変なことが起こった。すなわち、朝鮮陣中における失態によって、三番隊を構成した大友義統(吉統)が 改易となったのである。吉統は最前線の平壌に布陣していた小西行長の背後に備えていた。ところが、明軍二十万の 不意の攻撃を受けて窮地に追い込まれた小西の救援要求に応じることなく吉統は退却した。いわば戦線離脱となり、 秀吉の激怒を買ってしまったのである。
 鎌倉以来四百年の長きにわたって豊後を支配してきた大友氏の改易の意味するところは大きい。それは、守護から守護大名そして戦国大名を経て近世大名となった旧族大名の没落を意味するばかりでなく、豊後における領国体制の変容を相来したからである。以後、豊後は旧族大名大友氏による一人支配から、豊臣大名八家の分割支配によって小藩分立状態を招来し、しかも、太閣蔵入地が設定されることによって、豊臣政権を支える主要な基盤の一つとなったのである。
 慶長五年(1600)関ヶ原の役に際し、大友吉統は豊後奪回を意図したが、不成功に終わった。没落した旧族大名の家系は、近世社会に生き延びることを否定されたのであった。その後、大友吉統の孫義孝が江戸幕府のもとで高家となり、以後、千石を知行して幕末まで続いた。
・出典:戦国大名系譜総覧所収=藤野 保氏論文

  




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