赤松氏



家紋アイコン 置塩城探索記
晴れた日は遠く播磨灘が望める戦国山城



北西より揖保川越しに見る

 赤松満祐が、将軍足利義教を殺害した「嘉吉の乱」で。赤松宗家は断絶した。しかし、赤松旧家臣らは、満祐の弟義雅の孫にあたる赤松政則うをもり立てて、お家再興に尽くした。
 その結果、赤松氏の再興がなり、政則は「応仁の乱」に活躍して、播磨・美作・備前の守護職に復活した。そして文明元年(1469)、政則は居城として現在の夢前町に置塩城を築城し、侍所所司の要職に就く出世を果たした。城下には京都風文化が栄え、後世に赤松小判、置塩鏡のなど文化遺産を残している。
 政則は、明応五年(1496)に、波乱の生涯を閉じた。あとは、義村が継いだが、世は戦国乱世の様相が濃くなり、下剋上の嵐が吹き荒れるようになってきた。赤松氏の家臣であり、再興にもっとも尽くしたのが浦上氏であった。政則の時代に、所司代、守護代などをつとめ、主家をしのぐ勢いをみせていた浦上氏は、政則死後、その勢力をさらに拡大してきた。
 義村は浦上氏の台頭に対して、掣肘を加えようとしたが、結局、浦上氏の力を押さえることはできず、逆に大永元年(1521)浦上氏によって室津に幽閉され、ついには殺害されてしまった。義村が横死したあと、嗣子晴政は流浪の身となったが、享禄四年(1531)父の仇を討つ事に成功し置塩城に復帰した。
 しかし、すでに守護赤松氏の威令は有名無実となっており、三木城に別所氏、龍野城に庶流赤松氏、長水城に宇野氏らが割拠し、まさに播磨は戦国時代でのまっただ中にあった。さらに、時代は織田信長の登場によって、大きく転回しようとしていた。そして、信長の部将羽柴秀吉による中国征伐が開始された。このころの当主は則房で、秀吉に対抗せんとしたが、かなうはずもなく屈服して置塩城を開城、赤松氏の時代はここにまったく終焉を迎えたのである。
 その後、置塩城は解体されて姫路城の資材となり、空しく石垣や土塁が朽ち果てていくばかりの存在となった。

■置塩城案内図
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【登城:2002年8月14日】



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