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川中島の合戦
・川中島の戦いのうち第四回目の戦いは、謙信と信玄が一騎打ちに及んだ、と伝わるほどの激戦であった。



・川中島合戦図屏風(一部)

 天文二十二年(1553)、信濃の葛尾城主村上義清、鴨ケ嶽城主高梨政頼、井上城主井上清政、須田城主須田満親、長沼城主島津忠直、善光寺大御堂主里栗田寛明らは、甲斐の武田信玄に領地を奪われ、上杉謙信に助けを求めてきた。
 これを受けて謙信は、天文二十二年から永禄七年(1564)までの十二年間に、五回にわたって信濃の川中島に出陣し、信玄と激戦を展開した。これが世に名高い「川中島の合戦」である。五回のうち、もっとも激烈をきわめたのが、永禄四年、第四回の川中島の合戦で、謙信三十二歳、信玄四十一歳のときであった。とはいえ、この合戦の具体的な経過は史料がなく、ほとんど分かっていない。そこで、『甲陽軍鑑』『上杉年譜』などからこの合戦の様子をながめてみたい。
 永禄四年八月末、謙信は一万八千の大軍を率いて春日山城を出撃し、信濃の善光寺に集結した。ここに大荷駄と後詰として五千の兵を残し、自らは一万三千の兵を率い、雨宮の渡しから千曲川を渡って妻女山に陣を張った。まさに謙信得意の電撃作戦であった。一方、武田信玄は一万六千の兵を率いて躑躅ケ崎館を出撃し、棒道を進軍して海津城に入った。
 九月九日、重陽の節句の夕暮れ、謙信は海津城から立ち上った炊煙に、信玄の奇襲作戦を看破し、ただちに諸将を集め、進言と雌雄を決するときのきたことを伝えた。
 謙信は妻女山頂に大篝火を焚き、旗幟を立て、上杉軍が陣取っているように偽装し、亥刻(午後10時ころ)を待って妻女山を下った。そして、千曲川の雨宮・十二ケ瀬・狗ケ瀬を渡って、八幡原へと軍を進めた。
 一方、武田軍別働隊一万二千は子の半刻(午前一時ころ)に海津城を出撃し、妻女山へ向かった。信玄は弟信繁、 嫡男義信をはじめ八千の兵を率いて八幡原に布陣し、夜の明けるのを待った。世に有名な「啄木鳥の戦法」であった。 すなわち、武田軍別働隊が妻女山を奇襲し、謙信が八幡原に出てきたところを、武田軍本隊が待ち伏せて 全滅させようというものであった。

夜明けの決戦

 この武田軍の作戦の裏をかいて八幡原に布陣した上杉軍は、濃霧の晴れるのをじっと待っていた。午前七時半ごろ、八幡原にたちこめていた霧が晴れると、合戦の火蓋が切って落とされた。
 上杉軍の先陣は、剛勇無双の勇将柿崎和泉守景家であった。景家は陣頭指揮をとりながら、武田軍の先陣飯富三郎兵衛昌景隊をめがけて突撃した。千五百騎の柿崎隊は、大蕪菁の大纒をおし立て、景家に遅れじと続いた。謙信はこの一戦に上杉家の興亡を賭け、車懸かりの戦法で武田軍に迫ると、信玄も鶴翼の戦法で応戦した。
 謙信は、紺糸威の鎧の上に萌黄緞子の胴肩衣を着し、白手巾で頭を包み、放生月毛の馬に乗って、三尺の小豆長光の太刀を振りかざして、ただ一騎、信玄の陣営に突入し、電光石火のごとく三太刀信玄に斬りつけた。信玄は太刀を抜く間もなく、軍配団扇で謙信の太刀を防いだ。三の太刀は信玄の肩先を斬りつけた。信玄あわやと思われたとき、駆けつけた中間頭の原大隅守が槍で馬上の謙信をめがけて突き上げた。が、一瞬かわされ、馬の尻を刺した。馬は驚いて跳ね上がり、駆け出した。謙信は信玄の首を逸し、信玄は謙信の必殺の太刀から免れた。これが、世に語りつがれる謙信と信玄の一騎打ちである。
 八幡原で謙信の軍と信玄の本隊が激突している最中、武田軍別働隊は妻女山に到着した。しかし、すでに八幡原で 戦いは始まっており、驚いた別働隊は、千曲川を目がけて賭け下った。十二ケ瀬を渡河しようとしたとき、謙信軍の殿、 甘糟近江守隊千騎の猛攻撃を受けた。しかし、甘糟隊は多勢の無勢、ついに別働隊に切り崩された。
 この別働隊の到着で、戦況は一変した。直江実綱の小荷駄隊二千は潮時をみて犀川を渡り、旭山城の麓に陣を張った。 謙信もこれ以上の戦闘続行は不利とみて、善光寺に引き上げた
 この合戦で、上杉軍の死者三千四百余人、負傷者六千余人、一方武田軍の死者四千六百余人、負傷者一万三千余人だったという。その数はただちに信用できないが、たくさんの死傷者を出した激戦であったことは間違いない。ちなみに、謙信の「血染めの感状」には数千騎、関白近衛前嗣の書状には八千余人を討ち取ったと書かれている。
 上杉軍の戦死者は志駄義時、庄田定賢、大川駿河守らであったが、武田軍は信玄の弟左馬助信繁、諸角昌清、 初鹿野源五郎などの大将クラスであった。そのうえ、信玄・義信父子もで負傷したほどであった。一説に、 このとき武田軍の軍師山本勘助も戦死したといわれている。

合戦の評価

 この合戦の勝敗を『甲陽軍鑑』では「其合戦、卯の刻に始まりたるは大方越後輝虎のかち、巳の刻に始まりたるは 甲州信玄公の御かち」としているが、総合的にみて五分五分、引き分けとするのが妥当であるようだ。
 これは、 戦闘における勝敗であって、この合戦も含め前後五回戦われた川中島の戦いの結果に目を向けると、 謙信に援助を依頼した信濃の武将たちは領土を奪還することが成らず、川中島周辺の地は信玄が 領有するところとなった。 これを見れば、たしかに戦闘そのものは五分五分の結果であったが、戦争の成果そのものは信玄が得た。言い替えれば、謙信は合戦に善戦したが、政治において信玄に敗れたというべきか。
 合戦が終わった九月十三日、謙信は軍功のあった武将たちに「血染めの感状」を与えた。血染めといわれるが実際に血で書かれたものではなく、この一通の感状が一族・郎党ら死傷者の代償であったことから、こう呼ばれたものである。 謙信から感状をもらったのは、色部勝長・安田長秀・垂水源二郎・本田右近允・中条藤資・松本忠繁・岡田但馬の 七名で、うち、色部・安田・垂水宛ての三通が現存している。
・謙信と戦った信玄画像 
  


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