甲信越・北陸戦国大名割拠地図
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天文十七年、兄晴景の譲りを受けて、越後守護代に祭り上げられた謙信は、その二年後の天文十九年、守護の上杉定実が嗣子のないまま死去して断絶したため、朝廷から白傘袋と毛氈の鞍覆の着用を許されるという、実質的には国守大名と認められることになる。
そして、自国平和安泰のために国内の反乱分子の討伐、さらに、武田信玄の圧迫を受ける信濃の高梨政頼や村上義清といった名族や小領主からの救援を依頼されるなど、謙信は兵を起こさなければならない状況になった。
しかし、謙信の信仰と信条からいえば、戦争は悪であり、かといって自国を侵そうとする敵を見過ごしにもできない。このジレンマに悩んだ謙信は、自分が戦うのは、あくまで正義のためという一種の大義名分を思いついた。
そこで謙信はさっそく、弾正少弼従五位下に叙せられたお礼という名目で上洛し、後奈良天皇に拝謁して天盃や御剣とともに「任国および隣国の敵を討伐し、威名を子孫に伝え、勇猛を万代に施し、忠を一期に尽くせ」という綸旨を受けた。
こうして、長尾景虎(謙信)の軍は、いわば官軍ということになり、上洛の前年、小田原の北条氏康との河越の大夜戦に敗れ、居城の上野国平井城をも遂われて謙信にすがってきていた関東管領上杉憲政を助ける軍も、ためらうことなく派遣することができた。
以後、関東に出陣すること十四回を数え、また、武田信玄との五度にわたる川中島の合戦など、本心とは別に合戦の日々に身を置くこととなる。それは、四十九歳を一期として世を去るまで合戦に明け暮れる一生でもあった。
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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